2007年5月17日(木)偽善への警告(マタイ23:13-36)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

きょう取り上げようとしている聖書の箇所は一連の長いキリストの言葉です。前置きを抜きにして、早速お読みしたいと思います。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 23章13節から36節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」

今、お読みした箇所には「不幸だ」という言葉が7回も繰り返されています。しかも、「あなたがたは…不幸だ」と面と向かって言っているのですから、その言葉はとても厳しい言葉に響きます。
7回も繰り返される「不幸だ」という言葉に関して言えば、それに対応する「幸い」についての教えがこの福音書の最初の方に「山上の説教」の巻頭言として記されています。イエス・キリストは「不幸だ」「わざわいだ」とそればかりを最初から語っているのではありません。貧しい者の幸い、悲しむ者の幸い、柔和な者の幸いなど九つの幸いについて既に語っているのです。
幸いと不幸、恵みと裁き、祝福と呪いについて語るのは、実は旧約聖書の時代からの伝統です。モーセは約束の地を前にして、モアブで神との契約を更新するときに呪いと祝福を民に語り聞かせました。約束に祝福と呪いが伴っていることは約束の厳粛さから来るものです。のろいやわざわいは決して神の約束の中心ではありません。
キリストは神の国の到来と神の国の祝福を何度となく宣べ伝えてきたのです。その福音に耳を傾けず、キリストを拒むことによって自分自身にわざわいがもたらされるのです。

さて、先週のお話の中でも言いましたが、これらの言葉を聞いているもともとの聴衆は、弟子たちであり群衆でありました。直接ファリサイ派の人たちを前に語っていると言うものでありません。しかし、きょう取り上げているキリストの言葉はあたかも律法学者はファリサイ派の人々を目の前にして、「あなたたちは不幸だ」と名指しで非難しているように聞こえます。けれども、このキリストの言葉を自分には直接関係のない言葉、他人を非難した言葉だと安易に考えてはいけないのです。それはややもすれば弟子たちや群衆も陥るかもしれない誤りだからです。
イエス・キリストは「あなたたち偽善者は不幸だ」とおっしゃいます。七つ繰り返される「不幸だ」という言葉のうち六つまでが「あなたたち偽善者は不幸だ」と繰り返されるのです。残りの一つは「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ」といわれていますが、全体を流れているのは、偽善的な態度がもたらす災いなのです。

まず13節と15節では、律法学者、ファリサイ派の人々が陥っているわざわいを総括して、天国から人を締め出し遠ざけてしまうわざわいだと述べています。本来、律法学もファリサイ派の人々も神の国へと自分が入り、またそのように人々を導くためにこの世に遣わされた人たちであったはずです。しかし、イエス・キリストが見るに、彼らは自分が天国に入らないばかりか、入ろうとするものたちの前で天国の門を閉ざしてしまうと言うのです。しかも、改宗者を得たとしても、神の国の子にするのではなく、自分たちと同じ地獄の子にしてしまうと言うのです。
その具体的な指摘が16節以下に続きます。
その具体的な例は、彼らが定めた誓いについての掟や、10分の1の捧げものについての掟に見られるものです。律法学者たちは律法を現実の生活の中でまっとうするために、律法が規定していない具体的な定めを数多く生み出していきました。本来は律法をまっとうするという大きな目的であったにもかかわらず、結果として神をないがしろにしたり、正義や慈悲や誠実といった律法の中心が抜け落ちてしまうという矛盾を生み出してしまったのです。
またその生活態度の矛盾は内面を外側で取り繕うとする偽善にもっともよく現われていたのです。心そのものが罪で満ちている現実を、外に現われる行いによって覆うことができればそれで十分と考えたのです。いえ、彼ら自身も自分たちのしていることをそんな風には思っていなかったでしょう。しかし、結果として律法を守る方法を細かく規定すればするほど、内面よりも外面的な行いこそがすべてになるという結果になってしまうのです。

では神の国に入り、また入ろうとする者を手助けするために何が大切なのでしょうか。それは砕けた悔いた心を持つことです。外面を取り繕うことを考えるよりも、神の前に罪人である自分を素直に告白し、赦しを請うことの方がはるかに大切なのです。
ですから、イエス・キリストは「心の貧しさの幸い」を説き、「悲しむことの幸い」を説いていらっしゃるのです。