2007年5月24日(木)招きに応じない罪(マタイ23:34-39)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

キリスト教の宣教団体は世界中に数多くあって、その伝道の仕方も様々です。メッセージの提示の仕方も人々へのアプローチの仕方も時代や状況に応じて様々に変化しています。もちろん、伝えられる福音そのものが変わってしまったのでは伝道者失格です。
宣教団体によっては神の裁きや世の終わりの時を強調して、来るべき神の怒りから逃れるための救いを提示するというアプローチで宣教活動を行うところがあります。
逆に罪の赦しと救いの恵みを全面に押し出して、神の愛へと招き入れるというアプローチで宣教活動を進めていく団体もあります。そして、現代に圧倒的に受け容れられるのはまさにこの愛と赦しを全面に押し出すアプローチの仕方です。
けれども、神の怒りや裁きについてうやむやにしてしまうというのは、聖書全体から見れば、決して正しい福音の理解ではありません。
きょう取り上げるイエスの言葉は、むしろ頑なな罪に対する厳しい裁きの言葉です。けっして耳障りの良い言葉ではありません。しかし、そのイエスの言葉にも耳を傾けてこそ罪と福音の理解も深まるのです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 23章34節から39節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」

前回は律法学者やファリサイ派の人たちに対する厳しい非難の言葉を学びました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがたは不幸だ」と名指しで非難されるほど厳しい言葉でした。しかも、「あなたがたは不幸だ」という厳しい言葉は七回も繰り返されています。その一連の言葉の締めくくりは、さらに辛らつなものでした。「だから、今からでも悔い改めよ」という悔い改めへの招きではなかったのです。

「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」

きょうの箇所はその言葉を受けて「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」と続きます。
この場合の「だから」という言葉は、決して「だから悔い改めよ」とは繋がらないのです。むしろ、先祖たちが始めた悪事を仕上げ、地獄の罰を自分たちの上に積み重ねるようにと、預言者を遣わし、その遣わされた者たちを迫害させ殺させようというのです。
こういう聖書の表現というのは最も難解で、もっとも躓きを感じる言葉かもしれません。ここだけを切り離して読めば、神はなんと意地悪なお方だ、ということになってしまいます。しかし、だからといって、神の言葉を宣べ伝える人を派遣しないことが神のなすべきことなのでしょうか。この世にクリスチャンがいなければだれもキリスト教会を迫害するという罪を犯さなくても済むし、キリスト教を宣べ伝える人間がいなくなれば、不信仰という罪もなくなるのに、と考えるのは本末転倒しています。それはまるで凶悪な犯罪グループに立ち向かって殉職者をだした警察に対して、「あなたたちさえ黙って見過ごしていれば、我々だって歯向かうようなまねはしなかった」と責任を転嫁するようなものです。
神は怒りの日に備えて、彼らの悪が裁きに必要なだけ満ち溢れるようにとしておられるのです。

イエス・キリストはさらにおっしゃいます。

「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」

アベルは人類初の殺人事件で兄から命を奪われた犠牲者でした。アベルが信仰によって神に受け容れられたことを妬む兄カインの起こした事件です。旧約聖書の創世記四章にその事件は記されています。
バラキアの子ゼカルヤという人物は、旧約聖書歴代誌下の24章20節以下にその事件が記されています。彼は民衆に向かって主の戒めを守るようにと説きましたが、人々はその声を聞き入れず、かえって彼を捉えて殺してしまいました。ユダヤ人の手にしている旧約聖書は今日わたしたちが手にしている旧約聖書と書物の並び方が違っています。創世記に始まり歴代誌が最後に置かれています。従ってアベルの血からゼカルヤの血という表現は、要するに旧約聖書に記された最初から最後まですべての殉教の死ということなのです。今や積もり積もった神の怒りが溢れ出す時がやってきたのです。

もちろん、こうなる前に手立てがなかったわけではありません。イエス・キリストはおっしゃいました。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」

そうです。何度も何度も神の招きがあったのです。悔い改めるチャンスが繰り返し与えられていたのです。親鳥が子供たちを翼で覆って守るように、神はイスラエルの人々を招き寄せていたのです。にもかかわらず、彼らはそれに応じることがなかったのです。それだからせっかくの神の忍耐もまったくの無駄になってしまったのです。
神の忍耐を決して軽んじてはなりません。律法学者やファリサイ派の人たちに対するイエスの厳しいお言葉は、まさにわたしたちへの警告でもあるのです。神は一方では罪深いわたしたちが心から悔い改めることを忍耐して待っておられます。しかし、この神の忍耐を軽んじる者には、裁きに備えて神の怒りが積み上げられているのです。