2007年6月14日(木)人の子の来臨(マタイ24:29-35)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

世の終わりについての教えを終末論と呼びます。しかし、「終わり」という点を強調しすぎると何のための終末論なのか分からなくなってしまいます。聖書の終末論はただ万物が滅んで終わりが来ることを教えているのではありません。古い天と古い地が過ぎ去った後で、新しい天と新しい地が姿をあらわすことが約束されているのです。その新しい世界の始まりに、キリストが再びやってきてくださるのです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 24章29節から35節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

今までマタイによる福音書の24章を二回に分けて学んで来ました。この24章は世の終わりについてのイエス・キリストの教えが記されている箇所です、きょうもその終末についての教えの続きです。ただし、きょうの教えから、今までとは違った局面に入ります。
今までのところでキリストが語ってくださったのは、クライマックスに至る前兆です。戦争の噂や飢饉や地震を耳にし、目にします。しかし、それらは起るべきことであってまだ終わりではないと教えられて来ました。ちょうど産みの苦しみと同じだというのです。
その産みの苦しみは、いまだかつてないほどの大きな苦難であるといわれますが、しかし、終わりそのものではないのです。ですから、「メシアが現われた・あそこにいる。ここにいる」と噂を聞いてもそれに耳を傾けてはいけないといわれているのです。
そうした終末に至るまでに前兆についてお話になった後、いよいよキリストは終末の出来事についてお語りになります。

「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」

「その苦難の日々の後」というのは今まで学んできた終末を迎える産みの苦しみの日々のことです。「日々」とありますようように、それは一日や二日の出来事ではありません。しかし、長い終末の前兆である苦難の時が終わると、今度はたちまち終わりがやってくるのです、
そこに描かれる情景は天体に起る異変です。終末の出来事を記す言葉にはしばしばこの天と地に起る異変が語られます。
たとえば、ペトロの手紙二の3章10節以下ではこういわれています。

「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。…その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう」

この終末を語る言葉が、ユダヤの終末論に特有な象徴的な言語なのか、それとも現実を語っているのかは明白ではありません。しかし、どちらにしても、それを単なる空想的なスペクタクルと見るべきではないでしょう。どんな筆をももってしても描ききることのできない一大事件なのです、
このような破滅的な終末の出来事を、聖書の別の個所では「万物が新しくなるその時」と呼んでいます(使徒3:21)。終末と言うのは破滅の時ですが、それは天地が更新されるための破滅なのです、古い天と地が過ぎ去り、新しい天と地が与えられる時です。旧約聖書の創世記の始めには、「光あれ」という神の言葉で天地万物の創造の時が開始され、光を担う太陽や月や星が造られていく様子が描かれていました。
終末の時には、光の担い手である太陽や月や星が天からふるい落とされ、再び闇が宇宙を覆います。しかし、それは光を失った希望の無い世界の到来なのではありません。

「そのとき、人の子の徴が天に現れる。…人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」

栄光を帯びた人の子キリストを人々は仰ぎ見るのです。この人の子であるキリストが天の雲に乗ってやってこられるという表現は既に旧約聖書ダニエル書7章に出てくる表現です。ダニエル書に描かれる「人の子のようなもの」は「『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み権威、威光、王権を受けた」(ダニエル7:13-14)と記されます。同じようにキリストが来臨するのも、王としての権威と威光を帯びてのことです。王というのはそれを治める民がいることが前提です。民のいない王というのはありえません。キリストがいらっしゃってなさることは、ご自分の民を四方からご自分のもとへと集めることなのです。

万物が新しくされ、王として君臨されるキリストがご自身の民を集められること…そのような出来事として終末の時はクライマックスを迎えるのです。

イエス・キリストはこの終末の時が確実にやってくることをいちじくの木のたとえから教えておられます。

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」

イエスの時代の人々は誰でもいちじくの様子を見れば夏が近づいていることが分かりました。そして、そのとおり確実に夏がやってきたのです。当たり前ですが、いちじくの葉が伸びたので、夏がやってくるのではありません。夏が近づいたので、いちじくの葉が伸びるのです。
同じように、人の子がやってくることは確実です。そして、人の子が近づくので、産みの苦しみが起るのです。これらのことがことごとく起ったけれども、結局キリストは来なかったということはありえないのです。「わたしの言葉は決して滅びない」とおっしゃるほどイエスの言葉は確実なのです。であればこそ、キリストの来臨に心して備えることが求められているのです。