2007年8月30日(木)ユダの裏切りとキリストの主権(マタイ26:47-54)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

きょう取り上げようとしている箇所は、美術の作品としても絵画に数多く描かれた有名なユダの裏切りの場面です。接吻をもって自分の先生を裏切ろうとするユダの邪悪な計画とその実行の様子が描かれています。きょうの箇所にタイトルをつけるとすれば、「ユダの裏切り」とか「イエスの逮捕」とか、そういうタイトルが内容を最もよく表しているでしょう。
しかし、きょうの箇所をよくよく注意して読むと、事件の顛末を主導的に導いているのは、裏切り者のユダのようでありながら、ユダでは決してないのです。もちろん、ユダを自分たちの道具として使ったユダヤの最高法院のメンバーがリーダーシップを取っていたと言えなくはありません。しかし、ユダヤ最高法院の議員たちの視点からきょうの箇所は描かれてはいないのです。ユダがイエスを裏切り、ユダヤ最高法院の指導のもとにイエス逮捕の運びとなったように思われながら、福音書は神の救いのご計画という視点から出来事全体を描こうとしているのです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 26章47節から54節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

前回はゲツセマネの園で神の御心を祈り求めたイエスの姿を学びました。そのゲツセマネの園での祈りを終えたイエス・キリストは確信に満ちた思いで、こうおっしゃいました。

「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

きょうの箇所を読むときには「時は近づいた。…立て、行こう」と確信に満ちた足取りで立ち上がられるキリストの姿を思い浮かべながら、読み進める必要があるのです。

まず、場面に最初に登場するのはユダです。ユダは最後の晩餐の席を立ち去って、再びここに姿をあらわします。その間、ユダは最高法院の人々と打ち合わせたとおりに事を運ぼうとして、群衆たちと落ち合った上で、イエスのもとに向かってきたのです。そして、打ち合わせしたとおりにイエスに恭しくも挨拶の接吻をします。
イエスに挨拶の接吻をしたのは、福音書が記すとおり、誰を逮捕するのかという目印となるためでした。もちろん、今まで神殿境内で白昼堂々と教えてこられたイエスですから、彼らがイエスを知らないという事はなかったでしょう。しかし、夜の暗闇の中ですから、いくら明かりがあるといっても、取り逃がす可能性はないとはいえません。ユダが近寄って接吻した者こそ、その人物だとする打ち合わせは大したものです。
しかも、挨拶の接吻は、「こいつだ、こいつを捕まえろ」と指差して大声で叫ぶよりもずっと相手を安心させる狡猾さがあります。まさか自分を裏切ろうとして近寄ってくるとは誰も思いません。
すべてがユダの打ち合わせどおりに事が運んでいるように見えました。
ところが、接吻をもって挨拶するユダにかけたイエスの言葉は意外なものでした。

「友よ、しようとしていることをするがよい」

まず、第一の意外さは、この期に及んでなおユダを「裏切り者」と呼ばずに「友よ」と呼んでいる点です。ユダは自分が裏切り者と呼ばれるに値することは百も承知だったことでしょう。むしろ、「裏切り者」と呼ばれた方がしようとすることを腹を据えて実行できたでしょう。しかし、イエスはあえて裏切ろうとするユダを「友よ」と呼びかけているのです。
そこにはなおユダの良心を信じ、ユダを罪から目覚めさせようとするイエス・キリストの慈しみがあふれ出ているのです。

もう一つの意外さは「しようとしていることをするがよい」というイエスの言葉です。

ユダヤ最高法院もユダも、計画は秘密裏に立てられ、秘密裏のうちにここまで事柄を運んできたつもりでした。よもやキリストがこの秘密の計画を知っているなどと夢にも思っていなかったことでしょう。まして抵抗もしないどころか、「しようとしていることをするがよい」という言葉を聞くとは拍子抜けもいいところです。ここで計画の主客が逆転しているのです。

もちろん、このイエスの言葉はもう一つの訳し方があります。

「友よ、何のためにきたのか」

あたかもキリストは何も知らないかのような発言です。しかし、キリストがすべてをご存知であったことは前後の文脈から明らかです。知らないふりをしながら、実はすべてを手中に収めておられるキリストです。どちらの翻訳にしても、事を運んでいるのは周到な打ち合わせをしてきたユダではなく、イエス・キリストなのです。

少なくとも弟子の一人はただならぬ事態に剣を抜いて抵抗しました。事態は剣を振りかざす自分の手中の中にあると考える点で、この弟子もユダとは対極にありながら本質は同じだったのです。
キリストはこの勇敢な弟子に大してはこうおっしゃったのです。

「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」

事態の転換はこの弟子の手の中にもないのです。神の深い御心だけが、聖書の言葉どおりに実現していくのです。キリストの受難とは悪の世界が義であるキリストを抹殺する話ではないのです。そのような人間の邪悪な計画をも凌駕する神の愛と知恵が、人間の救いのために定めたご計画を人知を超えた方法で実現する話なのです。