2007年9月6日(木)神を冒涜する者(マタイ26:57-68)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

宗教裁判にかかわるということはあまり経験のある事ではないと思います。特にある教説や身分を巡って、その真偽を正すという宗教裁判は、訴える側も訴えられる側も神の前に真剣です。部外者から見ればどうでもよいことに熱を上げているように見えても、当事者は真剣そのものです。いずれが神の側に立つ者で、いずれが神を冒涜する者であるのか、その立場は逆転してしまうこともあるからです。
逮捕されたイエス・キリストはユダヤの宗教裁判とローマ帝国の世俗の裁判にかけられます。きょうはユダヤの法廷で裁かれるイエスの姿から学びます。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 26章57節から68節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

先週はユダによって裏切られ、逮捕されたキリストの姿を学びました。マタイによる福音書によるとキリストは逮捕されるや、直ちに大祭司カイヤファのところへ連れて行かれます。そこには律法学者や長老たちも集まっていました。証人たちも呼び集められていました。
夜中であるにもかかわらず、このような裁判が召集されたことに、ユダヤ最高法院の焦りと思惑を感じます。彼らは以前から考えていたとおり、イエスを死刑にするためにイエスを逮捕し、明日を待たずに裁判に取り掛かったのです。何人もの証人が予め用意されていました。
「結論が先にある」というのは何とも不当な裁判のように感じられるかもしれません。しかし、ユダヤ最高法院にしてみれば、なんとしてでもイエスの害悪をここで撲滅してしまいたいと必死だったのです。
ここまでしてイエスを死に追いやって、イエスの運動の火を消し去りたいユダヤ最高法院の焦りとは対照的に、裁判をお受けになるキリストの態度は堂々としていて、少しも臆するところを感じさせません。不思議に思うほどにキリストは黙っています。
いえ、もともと何の罪もないお方なのですから、黙っていても、証人が掲げる証拠の方が自滅してしまいます。一体何人の証人が法廷に立って証言したのかは分かりません。ただ、最後の最後になってもっとも有力と思われる証言者がふたり登場します。その二人が挙げた証拠とは「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」というものでした。
確かにイエス・キリストはヨハネ福音書によればそのように口にしたことがありました(2:19)。ヨハネ福音書はそのときのやり取りをこう記しています。

「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは3日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。(ヨハネ2:-19-21)

イエスの言葉の真意をヨハネ福音書は「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と記していますが、言葉は一人歩きして、ついに裁判の証人たちによって証言されることになるのです。このイエスの発言はよほど印象深かったのか、キリストの弟子たちまでもが後に神殿の破壊者の一味であると非難されたことが使徒言行録6章14節に記されています。

けれども、このとっておきの証言でさえも、マルコによる福音書の記述によれば、二人の証言はかみ合わなかったのです(マルコ14:59)。このままでは、証拠不十分でイエスを無罪放免しなければなりません。ですから、黙りつづけているイエスに大祭司は思い切った質問を投げかけました。それもイエスの日ごろの言動をよく観察しての質問です。

「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」

もちろん、この場合メシアであるという自己証言はそれ自体で直ちに罪になるといえるものではありません。むしろ神の子であるかどうか、それも特別な意味で神の子であるかどうかを問いただしてみたのです。

それに対してイエス・キリストは肯定とも否定ともとれる答えをします。

「それは、あなたが言ったことです。」

「あなたが勝手に言っていることだ」とも受け取れるますし、「あなたの言う通りだ」とも受け取られる言葉です。ただ、キリストの真意がどちらにあるにしても、質問をした当の大祭司カイアファには自分を神と等しい者と認めた不届きな発言としか映らなかったのです。カイヤファにとっては冒涜的な発言さえ手に入れることができれば、イエスを冒涜罪と確定できるのですから、イエスの発言の意味を十分に考えることもなかったのでしょう。すぐさま最高法院の議員たちに問い掛けます。

「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」

残念なことに大祭司もユダヤ最高法院の議員たちも、イエス・キリストがおっしゃった大切な言葉の続きを聞き漏らしていたのです。いえ、聞こうともしなかったのです。

「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」

確かに、イエスがまっかな嘘つきであれば、その発言は取るに足らないことでしょう。しかし、もし、ほんとうに神の子であり、神から遣わされたメシアであるとすれば、彼らこそが神を冒涜する者として裁かれなければならないのです。キリストが神の右に着座する「やがて」というのはそんなに遠い未来のことを言っているのではありません。十字架、復活、昇天をとおして、このあとすぐにも神の右におすわりになるのです。