2007年11月29日(木)一致の確認(ガラテヤ2:1-10)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

キリスト教会が一民族の宗教から世界宗教へと発展していくのにはそれほど時間を要することではありませんでした。また、全世界に福音を宣べ伝えることは、決してキリスト教会の人間的な思い付きではなく、それはキリストご自身が望んでおられたことであるというのが、キリスト教会の理解です。
しかし、実際に異邦人を兄弟として受け入れるということはユダヤ人クリスチャンにとってそんなに簡単なことではなかったようです。ガラテヤの教会を巡る問題はそうした事柄とも深く関わっています。
きょうの箇所では、そうした問題をパウロやエルサレムにいた使徒たちがどのように受け止め、教会の一致に向かって事を進めていったのかが描かれています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 2章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。…この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。…実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

きょう取り上げる箇所は、前回からの続きの文章です。書かれている事柄は前回学んだ個所と同じように、パウロの自叙伝のような内容です。もちろん、パウロがこのことを記している理由は、まことの福音から離れていってしまっているガラテヤの教会の人々を、再び福音の恵みに連れ戻すためです。手紙が書かれた目的から考えると、きょう取りあげた箇所でパウロがもっとも強調したい点は次の二点です。
それは「実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした」と言う点と「おもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました」という点です。つまり、エルサレムのおもだった人たちパウロの教えに反対しなかったばかりか、一致の確認の手を差し伸べたということなのです。

パウロの教えに反対している人たちにとっては、パウロこそまことの福音とは異なる教えを説く人物です。いくらパウロが宣べ伝える福音がキリストによって特別に示されたものであるとしても、使徒たちの教えとの間に一致が無ければ、やはりその福音の起源を疑わざるを得ません。まさにきょうの箇所はその疑いを晴らすための事実確認と言ってもよい箇所です。

もちろん、きょうの箇所はパウロの伝記を書こうとする研究者にとっては興味ある記事に溢れている箇所です。しかし、あまり重箱の隅をつつくような読み方は避けて、本筋を追って観ていきたいと思います。

パウロは、14年経って再びエルサレムにのぼったことを記します。どの時点から数えて14年のことを言っているのか、また、それが具体的にいつなのか、その問題はとりあえず脇へおいておきます。重要なのは、一回目にエルサレムに上ってペトロと個人的に面談した時とは違って、二度目の訪問は「啓示によるものでした」と記されている点です。パウロがこれから記そうとしているエルサレムでの出来事は、たまたまの出来事では決してないと言うことです。神の特別な導きのもとにエルサレムにのぼった結果なのです。
エルサレムでパウロがしたことは「自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求め」たという事でした。もちろん、そのことを尋ねたのは、パウロが自分の宣べ伝えていきた福音に自信を失いつつあったからという理由では必ずしもないでしょう。むしろ、自分が走ってきたことがけっして無駄ではなかったという確信から、自信に満ちた会談であったと思われます。またエルサレムの主だった使徒たちの間に、パウロの福音理解に対する疑義が出ていたのかどうか、ということもこれだけの文章からは何とも言うことはできません。ただ、「潜り込んで来た偽の兄弟たち」と呼ばれる人たちが、明らかにパウロとは違うものを持ち込もうとしていたことは確かです。それは具体的にはパウロが同行してきたギリシア人クリスチャンのテトスに割礼を受けさせるべきだと考える人たちでした。パウロによればその偽兄弟はイエス・キリストが勝ち取った自由を奪い去る者たちであり、福音の真理から人々を離れさせてしまう者たちだったのです。
この偽兄弟たちは自分たちの要求が当然使徒たちの賛同を得るものと考えていたのでしょう。しかし、エルサレムの使徒たちは彼らと同じようには行動を取らなかったのです。そればかりか、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、パウロには割礼を受けていない人々に対する福音が任されているということを確認したのでした。
そして、ついにはパウロとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出すにいたったというのです。つまり、異邦人に福音を宣べ伝えていたパウロは、宣教の対象こそペトロとは異なるものの、宣べ伝えられている福音そのものは同じイエスの福音であることを確認したというのです。
こうして教会は一致した福音理解のもとで、ユダヤ人伝道、異邦人伝道を続けてきたのです。そうした経緯から見ると、ガラテヤの教会の人々の行動は、単にパウロが伝えてきた福音から離れてしまったと言うばかりではなく、全教会の信仰的な交わりからの逸脱でもあったのです。