2007年12月20日(木)聖霊と信仰と行い(ガラテヤ3:1-6)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

信仰か行いか、この問題は人間にとってとても誘惑に富んだ内容を含んでいます。信仰だけがキリストのもたらす救いを受け取る器であるという教えは、恵みの福音そのものです。罪の状態が絶望的であるという自覚があればあるほど、その福音の恵みの大きさを感じ取ることができるものです。しかし、信じることによってだけ救いを手に入れることができると言う教えは、一方では人間を怠惰にするのではないかという疑問を生み出します。実際、恵みの福音を履き違えてしまうと、恵みが増し加わるために罪のうちに留まろうとする誤解が生じます。
またその反対に、救いに関して何か人間の果たすべき余地があるのではないかという思いが人間の中には芽生えてきがちです。せめて1%でも人間の果たせることが残ってはいないか、あるとするならば、積極的に協力する事が人間の果たすべき本分ではないかと考えるのです。
こうして、恵みの福音はいつも人間的な誤解によってその内容をゆがめられてしまう危険にさらされているのです。
きょうこれから取り上げようとしている箇所では、ガラテヤの教会の信徒たちが直面している問題が正に取り上げられようとしています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 3章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが”霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、”霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに…。あなたがたに”霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

今までパウロはやや回り道とも思える手紙の書き方をして来ました。と言うのも、この手紙の宛先はガラテヤの教会の信徒たちであり、その信徒たちは手紙の冒頭部分で「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」とパウロによって非難された人たちでした。当然のことながら、この手紙が書かれたのは、そのように福音から道を踏み外そうとしてるガラテヤの教会の信徒たちを正しい道に連れ戻すためでした。
ところが今までパウロが書いてきた事柄は直接ガラテヤの教会にかかわることではなく、パウロ自身にかかわる事柄ばかりでした。もちろんそれらが書かれたのは、パウロの福音理解と深くかかわるエピソードだったからです。
きょうからガラテヤの信徒への手紙の3章に入るのですが、主題はガラテヤの教会の人たちの誤った福音理解に戻ってきます。
1章6節で「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と綴ったパウロは、再びガラテヤの教会の人たちを手厳しく非難します。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」

パウロは再びここでガラテヤの教会の信徒たちに直接目を向けます。今までパウロが述べてきた事柄はパウロとエルサレムの教会の主だった人たちとの間で起った出来事や、アンティオキアの教会での事件でした。しかし、それらの出来事はいずれもまことの福音とは何かということに関係していたのです。そのことを一通り述べた後で再びガラテヤ教会の信徒が犯していた過ちについて取り上げようとしているのです。

パウロはまず初めに「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」というガラテヤ教会の信徒たちの体験に訴えかけています。もちろん、ガラテヤの人々がキリストの十字架を目撃したということではありえません。イエス・キリストの十字架が自分の罪のためであったこと、そして、そのキリストの身代わりの死によって救いがもたらされること、そのことをはっきりと示され、信じたという体験にほかなりません。
言い換えれば、ガラテヤの教会の人たちは最初から間違った福音理解の虜になっていたのではありません。彼らが最初に受け入れた福音理解こそ正しいものでした。では具体的にどのような過ちに彼らが転じていったのでしょうか。パウロはこう問い掛けます

「あなたがたが”霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」

「霊」という言葉が唐突にこの手紙の中では初めて登場しますが、もちろん、この手紙を受け取ったガラテヤの教会の人たちには周知の存在でした。それは新しい時代を告げる「神の霊」「聖霊」のことです。後にこの手紙の中ではクリスチャンを導き、豊かに実りを結ばせる存在として聖霊のことが描かれています。その聖霊は信じて与えられたのか、それとも律法の行いの結果として与えられたのか、とパウロは問います。もちろん答えは明白です。パウロ自身がガラテヤの信徒たちの体験に訴えかけているように、聖霊を授けられたのも、様々な奇跡が彼らの間で行なわれたのも、すべて行いによるのではなく、信じる信仰を通して与えられたものなのです。

パウロはそうした体験を指摘しながら「あなたがたは、…”霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と問題の所在を明らかにします。ガラテヤの信徒たちスタート地点には信仰がありました。福音を信じる信仰によってキリストの救いが完全にもたらされたとはっきりと確信していたのです。
ところが、ガラテヤの教会の人々は間違った教えの影響を受けて、まことの福音にそれとはまったく異質の福音を継ぎ足そうとしていたと言うことなのです。信じるだけでは足りないので、その不足を行いによって完成させようとする異質の福音にのめり込んでいたのです。具体的には後ほど明らかにされますが、救いが完成されるためには割礼を受けることが必要だとする教えに揺り動かされていたと言うことなのです。

今日のキリスト教会で割礼の問題が再び起るとは考えられません。しかし、聖霊によって始められた働きを、たとえそれが善意から出たものであったにせよ、行いによってそれを完成させようとする危険はいつでも付きまとうものなのです。