2009年2月5日(木)安息日のルール(ルカ6:6-11)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

ものには「かたち」というものがあります。何事でも「かたち」から入ると、それなりに良く見えるものです。ユニフォームや道具をそろえると、できる人のように感じられるものです。作法をしっかり身につけていれば、自己流の人よりも数段も上に思われます。宗教にもこれと似たところがあるのは否定できません。聖書や讃美歌を手にして教会へ行くようになれば、自分でも信心深くなったような気になります。食事の前に祈る姿勢をとれば、敬虔な人のように見えます。
もちろん、「かたち」のすべてを否定することはできません。しかし、「かたち」に囚われ過ぎて、本質を忘れてしまうというのが人間の弱さです。イエス・キリストがその時代の人々と対立したのはまさにこの点です。そして、安息日を巡る論争はその最も顕著な例です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 6章6節-11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

今回取り上げるのも、安息日を巡るイエス・キリストとファリサイ派との論争です。
ある安息日のこと、みんなが礼拝のために集まった会堂に一人の手の萎えた人がいたというのです。おそらくその人は地元の住民で、毎週安息日にはこの会堂で礼拝を守っていたのでしょう。そういう意味では特別な関心の的ではなかったと思われます。
ところが、そこに集まった律法学者やファリサイ派の人々は、この右手の萎えた人に目を留めたのです。それは決してこの人に対する同情や憐みの心からではなく、恰好の議論のネタとしてこの人に注目したのです。それはひょっとするとイエス・キリストを訴え出る絶好のチャンスになるかもしれないからです。
なんだか人をそんな風にしか見ることができない人々の罪深さをここに垣間見る思いです。

さて、律法学者やファリサイ派の人々がこの人に着目をしたのは、イエス・キリストが安息日にもかかわらずこの人を癒すかもしれないと考えたからです。彼ら自身の理解によれば、安息日には緊急性のない病気を癒すことは、安息日違反だったのです。ここで都合よくイエス・キリストがこの手の萎えた人を癒しでもしてくれれば、安息日違反で訴え出ることができます。そんなチャンスを狙っていたのです。

イエス・キリストはそのような心のうちをいち早く見抜いて、あえて彼らの期待通りの行動に出ます。手の萎えたその人をみんなの真中に立たせます。一同は何が起るのかと固唾を飲んで見守ったことでしょう。おもむろにイエス・キリストはおっしゃいました。

「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

イエス・キリストのこの問いは、単純で明快な安息日の理解を示しています。安息日は「善を行う日」「命を救う日」であるとイエス・キリストはおっしゃいます。安息日をどのように過ごすべきかは、それが善いことであるのか、命を救うことであるのか、その判断基準で考えるべきことを問い掛けていらっしゃるのです。
もちろん律法学者やファリサイ派の人たちには最初からそう言った安息日の理解が欠落していたということではないでしょう。しかし、細かい規則を定めれば定めるほど、安息日が制定された本来の意味が薄れ去っていってしまったのです。物事を複雑に考えすぎて、複雑に考えたことを守ることが安息日の過ごし方だと勘違いしているのです。

彼らはイエス・キリストの問いかけに答えることが出来ませんでした。それは決して間髪いれずにイエス・キリストが次の行動に出たからではありません。一同を見回すだけの時間があったのです。同じ事件についてマルコ福音書には「彼らは黙っていた」と記されています。そんな彼らを「イエスは…怒って見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われたのです(マルコ3:4-5)。

もし、彼らが答えを知っていながら、敢えて答えようとしないのであれば、それは卑怯な態度です。しかし、ほんとうに答えを知らないのだとすれば、彼らの安息日理解は複雑すぎて役に立たないのです。

イエス・キリストが身をもって示してくださったことは、この手の萎えた人を癒すということでした。イエス・キリストはユダヤ人の常識からすればとても大胆なことをしたのです。なぜなら何の緊急性もないのに安息日に病人を癒されたからです。
しかし、イエス・キリストにとって安息日は考えあぐねた挙句何もしない日なのではなく、善を積極的に行い、命を救う日なのです。その模範を示してくださったのです。

律法学者やファリサイ派の人々の頭の中では、いつも隣人への愛と神への愛は互いに相容れないもののように思われていたのでしょう。安息日は神への愛を優先させる日なので、隣人への愛はおろそかにされても許されるという理論が頭のどこかで許されていたのかもしれません。しかし、イエス・キリストはどちらが大切という発想でものごとを考えたのではありません。隣人への愛は善であり、善こそ安息日に行うべきことであり、そして、隣人愛を通して善を行うことは神を愛することに繋がるのだと考えていらっしゃるのです。

さらに、その善を選び取らないことは、「悪を行うこと」「命を滅ぼすこと」であるとイエス・キリストはおっしゃいます。その点もまたファリサイ派の人々と見解が対立するところです。ファリサイ派の人々は隣人愛を制限する日があったとしても、それは「悪を行うこと」でもなければ「命を滅ぼすこと」にもならないと思っていたのでしょう。けれどもイエス・キリストにとってはそうではなかったのです。成すべき善を成さないことは、悪を行うのに等しいのです。