2009年2月19日(木)幸と禍(ルカ6:17-26)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

何が幸いで何が禍であるか、という問いに答えることは人間にはとても難しいように思います。それは何よりも幸福に対する主観的な受け止め方が一人一人違うからです。わたしが自分を幸福であると感じているか、そうは感じていないか、そういう主観的なことならば、いくらでも答えることができます。しかし、そういうわたしを見て、そんなことを幸せと思っているなんて、不幸な人だと思う人もいるでしょう。逆にあなたはわたしよりずっと幸せだと言う人もいるでしょう。下を見れば自分よりも不幸せな人がたくさんいるように見え、逆に上を見れば自分よりも幸福に見える人がはたくさんいるように思えるでしょう。しかし、下と見える人が本当に不幸なのか、上と見える人が自分より本当に幸せなのかどうか、誰にもわからないことです。
また幸福に対する価値観の違いも主観とあいまって問題を複雑にします。幸せは富によるという価値を持った人は富や財産が多ければ幸せと思うでしょう。名誉に幸せがあると思う人は名誉や名声を求めるでしょう。重たい責任を負わされずに、ただ平凡に暮らせることに価値を見出す人にとっては、そういう暮らしに幸せを見出すでしょう。そのどれが本当に幸せかと問われれば、結局はその人の価値観で判断せざるを得ないのです
それと、もう一つ、人間にとって何が幸せであり、何が幸せでないのかという問題がむずかしいのは、誰一人として、自分の一生涯を先取りして知ることはできないからです。「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」とはこの世の諺ですが、苦難の中にあるときには、それが将来もたらされる幸せのステップであるかもしれないとは、中々思えないものです。逆に快楽に浮かれている時は、だれも将来起るかもしれない突然の不幸など考えようともしません。ましては、この地上での生涯を終えたあとになお続く命のことをも考慮して、何が幸せなのかを考えることなど人間にはとても難しい問題なのです。

けれども、イエス・キリストは憚ることなく幸と禍についてお語りになります。神の御子、イエス・キリストなればこそ、迷えるわたしたちを本当の幸せに導くことができるのです。、

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 6章17節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

きょう取り上げる聖書の箇所は、「平野の説教」と呼ばれている箇所です。この箇所によく似た箇所がマタイによる福音書の5章に出てきます。マタイによる福音書の方はイエス・キリストが山の上からお話くださったということで「山上の説教」と呼ばれています。それに対して、ルカによる福音書では「平らな所にお立ちに」なってお話を下さったので「平野の説教」と呼ばれています。
このルカによる福音書の「平野の説教」の聞き手は、弟子たちのみならず、数十キロ離れた地中海沿岸の町からわざわざやって来たおびただしい民衆でした。その人たちはイエス・キリストの教えを聞くためばかりではなく、病や汚れた霊に悩まされ、その悩みや苦しみから何とかして解放されることを願っていた人たちです。その聴衆に向かってイエス・キリストは幸いと不幸についてお語りになったのです。

イエス・キリストは、貧しい人々、飢えている人々、今泣いている人々は幸いだとおっしゃいます。それは大抵の人々が描いている幸福とはおおよそかけ離れたものであることは間違いありません。食べるものに事欠くほど貧しく、涙が出るほど悲しい暮らしを、誰が進んで望むでしょうか。
またそれとは反対に、イエス・キリストは不幸についても、大抵の人が描くものとは正反対のことをおっしゃいます。富んでいる人、今満腹している人、今笑っている人は不幸だとおっしゃいます。
もちろん、こうした事柄が何故幸福であったり、不幸であったりするのか、イエス・キリストはその理由を一つ一つ述べています。
それは貧しい人には神の国が約束され、飢えている人には満たされることが、泣いている人には幸せに微笑む時が来ることが約束されているからです。
わたしたちが幸福や不幸について考えるとき、それは、その場その場での、切り取られた人生の一場面だけを取り上げて考えがちです。貧しいという現実だけに目をやって、この不幸な現実から逃れることに一生懸命になります。それがいけないとは人間にはいえないでしょう。なぜなら、誰も将来の幸せを保証することはできないからです。だからこそ、人間はいつも目の前にある幸福を追い求めることに懸命になってしまうのです。
しかし、イエス・キリストはその場その時の物差しで人生の幸福を計るのではなく、神の約束を見据えた生き方を求めていらっしゃるのです。約束された神の恵みや、そこに至るまでの神の導きを視野に入れるときにこそ、今あるすべてを幸せと感じ、安んじていることができるのです。イエス・キリストはすべてのことが益となることをわたしたちに保証することができるお方です。そうであればこそ、貧しさの幸いも、飢えていることの幸いも、涙することの幸いもお語りになることができるのです。

また、イエス・キリストがお語りになっている幸いは、「人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき」の幸いです。つまり、イエス・キリストの側に立つことの幸いなのです。たとえ、そのために人々から追い出され、ののしられ、汚名を着せられたとしても幸いだとおっしゃいます。
この言葉は次の言葉と対になっています。
「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
貧しさから解放されて富を得、飢えから解放されてお腹いっぱいになるには、人の顔色を伺い、世の流れに逆らわないことが一番であるかもしれません。この世は自分に良くしてくれた人に報います。もちろん、正しいことに対する正当な報いを否定すべきではありません。そうではなく、報いを得ようとして、不正や偽善に走りがちなわたしたちをキリストは戒めていらっしゃるのです。キリストと共に歩んでこそ、約束された幸福にたどり着くことができるのです。