2009年4月2日(木)神が心にかけてくださった!(ルカ7:11-17)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

神は本当にいらっしゃるのだろうか。この疑問は苦しみに直面し、解決の糸口が見えそうにもないときにしばしば人が口にする言葉です。もちろん、神の存在を信じて疑わない人にとっては、疑問の形が変わります。神はわたしたちをお見捨てになったのだろうか。神はなにゆえに沈黙を守りつづけられるのだろうか。
遣わされるはずのメシアを待ちつづけていたユダヤの人々にとっては、メシアへの期待の高まりと、なかなか訪れないメシアへの苛立ちの気持ちは、裏と表の関係のように、ことあるごとにどちらかが顔をのぞかせたのではないかと思われます。
神から見捨てられること…これは神を信じる者にとってこれほど恐ろしいことはありません。どんな苦しみの中にあっても、神の訪れを感じることができるほんのわずかなしるしでもあれば、人はその苦しみを耐え抜くことができます。そのしるしが明らかであればあるほど、喜びも慰めも大きなものとなります。
きょう取り上げる箇所には、そうした神の訪れをはっきりと告げる出来事が語られます。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 7章11節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

前回の箇所に引き続き、今回もまたイエスの手によってなされた奇跡が記されています。その奇跡も、ただ病気を癒すといった奇跡ではなく、死んだ人を生き返らせるという大きな奇跡です。預言者が活躍していた旧約聖書の時代でさえも、ほとんど記録のないような出来事です。
奇跡を目撃した人たちの驚きと感動の声が事件を記録する物語の最後に印象的に記されます。

「大預言者が我々の間に現れた」「神はその民を心にかけてくださった」。

大預言者が現れたと人々が言ったのは、旧約時代の偉大な預言者エリヤのことを思い出したからでしょう。エリヤはサレプタのやもめがひとり息子を病気で亡くしたときに、この息子を生き返らせたからです(列王記上17:17-24)。
しかし、それと同時に人々が口にしたのは、ただ死んだ人間が生き返ったという驚きよりも、このことを通して神が自分たちを心にかけてくださっているというしるしを見た喜びです。
この奇跡の中心点はまさにこの「神はその民を心にかけてくださった」というよき知らせを伝える点にあったのです。いえ、もっと正確には、神はイエス・キリストを通してその民を心にかけてくださったと言うことです。

ところで、前回取り上げた百人隊長の部下が病気をいたしていただく話と今回の話はどちらもイエスによって行なわれた奇跡を記した記事ですが、先ほども指摘したとおり、今回の奇跡は死から人をよみがえらせると言う点で、両者の話には大きな違いがあります。しかし、違いはそればかりではありません。
まず、前回の中心的な登場人物である百人隊長が男性だったのに対して、今回の中心的な登場人物は女性です。しかも、百人隊長が地位ある人だったのに対して、今回登場する女性は社会的な弱者であったやもめです。女性、その中でも特に社会的な弱者であったやもめに目を留められるイエス・キリストの姿が描かれています。

もう一つの大きな違いは、今回のストーリーではイエス・キリストが主導権を握っているという点です。前回の話では、百人隊長の願いによって奇跡が引き起こされた話でした。しかし今回の話では、イエス・キリストが憐みを感じ、イエス・キリストが誰に言われるともなく母親に声をかけ、イエス・キリストが棺に近づいて手を触れ、イエス・キリストが死んだ若者に声をかけ、そして生き返ったこの若者をイエス・キリストがその母親にお返しになったのです。
もちろん、悲しみに暮れているこの母親が自分から何か行動を取ると言うことは期待できなかったでしょう。ただただ悲しみに明け暮れるより他はありません。亡くなったのは一人息子です。しかも、夫には既に先立たれているのですから、新しい男の子を授かるという望みはほとんどないのです。ここで家系が途絶えてしまうという、彼女のせいではない苦しみが追い討ちをかけています。

人の悲しみと言うものは、どんなに理解しようと同情したとしても、決してその人と同じように悲しみを感じることはできません。人の心のうちを知ってくださる神だけが、わたしたちの悲しみを知って憐れんでくださるのです。

「主はこの母親を見て、憐れに思い」と記される「憐れに思う」という言葉は、聖書の中には十二回しか出てこない特別な言葉です。それはいつもイエス・キリストの心情か、神の心情をあらわす文脈の中でしか出てきません。それは決して、上の立場の者が、下の立場の者を憐れに思うというのとは違います。相手の立場に感じて、はらわたの底から動かされるような深い共感です。神だけが持つことができる憐みの思いです。
もちろん、人が悲しみを理解しようと寄り添ってくれるだけでも慰めはを感じることはあるでしょう。しかし、たとえ誰にも理解されることがないと思える悲しみだとしても、なお、イエス・キリストはその悲しみを理解してくださり、ご自分から近づいてきてくださるお方なのです。
人々が自分たちを心にかけてくださる神を見出したのは、まさに、この心の底から憐れんでくださるイエス・キリストを通してなのです。

しかし、人々が自分たちを心にかけてくださる神を見出したのは、もちろん、イエス・キリストの深い憐みの心に触れたからということばかりではありません。死という問題に直接にかかわりを持つことができる力をイエス・キリストに見出したからです。

人の死に際して、人間にできることは、亡くなられた人の家族を慰めることと、なくなった人を丁重に葬ることだけです。いえ、慰めることでさえ、不十分にしかできません。できることと言えば、死者を葬ることだけです。
しかし、イエス・キリストは葬ると言う仕方を超えて、死と向き合い、死と関わることのできるお方なのです。死んだ者に直接声をかけることのできるイエス・キリストを通して、神がその民に心をかけてくださっているのです。