2009年4月16日(木)ヨハネとイエスと神の国(ルカ7:24-35)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

今だからこそ分かること、というのは、ほとんどの歴史がそうであると思います。たとえば戦争に向かってつき進んでいく軍部台頭時代の日本が、あのとき取るべき道はどうあるべきであったのか、という問題は、今でこそ客観的に検証できることかもしれません。しかし、当時のほとんどの人にとってはそういう判断は不可能に近いものがありました。
これは今の時代のことを考えてもまったく同じです。今の日本が抱えている問題が何であるのか、そして、その解決にはどんな道が選ばれなければならないのか、そんなことを今正しく言いえる人はほとんどいないでしょう。むしろ、歴史の流れに無力にも身を任せて、その結果である苦しみを味わうのが精一杯であるのがほとんどの人です。
この世の歴史でさえそうなのですから、救いの歴史ともなれば、なお分かりにくいことも多いでしょう。また、わからないがために受ける損失も大きいのです。
聖書は救いの歴史を解き明かし、わたしたちの選択すべき道を示しています。きょうの聖書の箇所はまさに、イエス・キリストが解き明かしてくださった救いの歴史です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 7章24節〜35節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。
「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

先週学んだのは、牢獄につながれた洗礼者ヨハネのもとから遣わされた弟子たちの話でした。洗礼者ヨハネは弟子たちをイエス・キリストのところへ遣わして、質問させました。
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
もちろん、この質問はヨハネが心の中で抱いた疑いではありません。むしろ、疑う弟子たちの疑念を晴らすために、あえて問わせた質問でした。そのことを先週学びました。

さて、そのヨハネの弟子たちが去った後、今度はイエス・キリストが民衆にヨハネが何者であるのかということを説きます。それがきょう取り上げた箇所の前半です。

イエス・キリストは民衆に問い掛けます。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。…しなやかな服を着た人か。」

ここでいう「荒れ野」とは洗礼者ヨハネが活動した場所です。荒れ野ではかつて洗礼者ヨハネが活動していたのですが、そのヨハネについて、いったいヨハネの何を見たのか、とイエス・キリストは問うていらっしゃるのです。
洗礼者ヨハネは風に吹かれる葦のような存在だったのでしょうか。風の吹くままにたなびいてしまうような、定まらない人物だったのでしょうか。あるいは風に耐え切れなくて折れてしまうような弱々しい人だったのでしょうか。人々が見たのはそんな弱々しいヨハネの姿ではなかったはずです。投獄されることを恐れず真実を語りつづけるヨハネです。来るべきメシアを指し示して真っ直ぐに道を進む人です。
あるいは、洗礼者ヨハネはしなやかな服を着て、王宮に住むような人だったのでしょうか。むしろ反対で、荒れ野に住まい、その姿はさながら預言者を思わせるような身なりと生活でした。
そうです。正に洗礼者ヨハネは預言者以上の預言者なのです。ヨハネのうちに預言者以上の預言者の姿を見るべきなのです。

洗礼者ヨハネが預言者以上の預言者であると呼ばれるには二つの理由がありました。
その一つは、ヨハネ自身が預言者によって預言されて登場してきたと言うことです。旧約聖書最後の預言者マラキがその登場を預言していたのです。そういう意味でヨハネは預言者以上の預言者です。
第二の理由は、メシアの道を直接備える預言者だからです。確かに旧約聖書の預言者たちも、メシアの到来を告げて、やがて来るべきメシアへの道を備えました。しかし、洗礼者ヨハネは、彼よりも後にはもはやメシアの道を備える預言者はいないという意味で、預言者以上の預言者なのです。

けれども、そのヨハネでさえ、「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われるのです。
なるほど、旧約時代の預言者と比べるならば、ヨハネは最後の預言者として頂点に立つ人であったかもしれません。また、その指し示す事柄の内容に関して言っても、直接メシアを指し示しているのですから、この上ないメッセージを伝える人であるかもしれません。
しかし、イエスと共に神の国がやって来たこの新約聖書の時代にあっては、やはり古い時代に属する人であることには変わりはないのです。新しい時代の到来を予告することはできても、その新しい時代をもたらすことのできる人物ではなかったのです。
けれども、そのヨハネをさえ受け止めきれずにいたのがイエスの時代の多くの人々でした。とくにファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、ヨハネから洗礼を受けないで、自分たちに対する神の御心を拒んだのでした。

いえ、受け止めなかったのは洗礼者ヨハネとそのメッセージについてだけではありませんでした。ヨハネのメッセージが指し示したメシアであるイエス自身をも拒んでしまったのです。
「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」のです。
その時代の人たちは、あまりにも近くに居過ぎて分からなかったという言い訳が許されるかもしれません。しかし、救いの歴史の全貌が示された今の時代に生きる私たちには、自分たちに対する神の御心を拒ばないようにと、なお一層の責任が求められているのです。