2009年4月30日(木)イエスに従う女性たち(ルカ8:1-3)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

マタイによる福音書の記事を読んでいると「女子供を別にして何人だった」と言うような記事を目にします。例えば、イエス・キリストが五つのパンと二匹の魚から五千人もの人を養われた記事は、女子供を除いた数字です(マタイ14:21)。もちろん、女性と子供には食べ物が与えられなかったと言うことではないでしょう。
しかし、今の時代の常識から考えると、女性や子供の地位が低く扱われているという印象は免れることはできません。もっとも、そのような計算の仕方は、当時の社会と比べて特別に福音書記者たちが女性や子供たちを蔑んでいたという証拠にはなりません。むしろ、福音書記者たちも時代の子だったのです。
いえ、新約聖書の中には、当時の時代背景と比べるなら、むしろ女性を含めた弱い立場の人々に対する新しい時代の幕開けを感じさせる記事を目にします。きょう取り上げる箇所もその一つです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 8章1節〜3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

きょう取り上げた箇所は、わずか3節ほどの短い箇所です。イエス・キリストが神の国を宣べ伝えて、町や村を巡り回ったとする記事は、4章43節に記されたイエス・キリストの言葉を思い出させます。ガリラヤでの宣教を開始したイエス・キリストは、その活動が一つの町に留まってしまわないようにと、ご自分の使命を表明してこうおっしゃったのです、

「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」

ナザレの会堂でイザヤ書の預言の言葉を紐解いて、ご自分の活動の意味を解き明かされたあの日以来(4:16-21)、ずっとガリラヤ地方を行き巡って神の国を宣べ伝えて来たイエス・キリストの姿を、ルカはここでもう一度描いて見せているのです。

「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。」(8:1)

もちろん、ガリラヤでの伝道の様子はこの後も引き続き書き記されています。そのガリラヤでの活動は9章51節で「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記されるまで続きます。

さて、その伝道の旅は、十二人も一緒であったと記されています。十二人とは言うまでもなく、イエス・キリストが弟子たちの中からお選びになった、「使徒」と呼ばれる十二人の男性たちです(ルカ6:12-16)。

ところが、ルカによる福音書はこのイエスの一行に従って旅を続ける女性たちのことも書き記しているのです。女子供を数に入れない当時の習慣から考えると、このような記事は異例のことです。あるいは、これはルカによる福音書の特徴であると言ってもよいかもしれません。と言うのも、すでにここに至るまでの福音書の記事の中に多くの女性を描いているからです。特に7章にはルカによる福音書だけが記している、息子を失ったナインの町のやもめのや、罪を赦されてイエスに感謝を表してやまなかった罪深い女性が登場していました。
これら女性を扱った記事がルカ福音書に多いのは、単にルカ福音書の個性というよりも、ルカ福音書の記者がキリスト教の人間観をいち早く感じ取っていたからでしょう。

さて、具体的に名前が挙げられているのは三人の婦人たちです。マグダラのマリア、ヨハナ、そしてスサンナです。これらの婦人たちは「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」といわれています。もちろん、病気を癒していただいて、一行と一緒に旅をしていたのは、この三人ばかりではありません。「そのほか多くの婦人たちも一緒であった」と記されている通りです。

マグダラのマリアは特に「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女」と呼ばれています。聖書の中で「七」という数字は特別な意味を持っていますから、単に悪霊の数が六つであったか七つであったかという数そのものが問題なのではありません。とりつかれた悪霊の凶悪さやそれがもたらす悲惨さが、この「七つの」という表現には含まれているのです。
ヨハネによる福音書によればこのマグダラのマリアは、復活したイエス・キリストを最初に目撃した人物です。

二番目に名前が挙げられているヨハナは、「ヘロデの家令クザの妻」と紹介されています。ヘロデの家令クザがどんな人物であるのか、詳しくは知られていませんが、「ヘロデの家令」と肩書きが添えられるほどの人物であったことは間違いありません。そのような世界に生きる人にまでイエス・キリストの福音が入り込んでいたことがここから読み取ることができます。

三番目はスサンナですが、後にも先にもここにしか名前が出てこない婦人です。私たちにとっては無名の人なのでしょうが、当時の教会では名前が知られていた人なのでしょう。

これらの人たちは、後に「ガリラヤから従って来た婦人たち」と呼ばれ、イエスの十字架と葬りを見届けます(ルカ23:49、55)。特にマグダラのマリアとヨハナはイエスが復活した墓を訪れた婦人たちの中に再び名前を残しています(24:10)。

さて、これらの婦人たちがイエスに従ってきたのは「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕」するためでした(8:3)。それは、7章で学んだ罪赦された女性と同じように、多くを赦されたからこそ多くを愛する生き方の典型と言ってもよいでしょう。それらの女性たちは感謝を強要されてでもなく、また、何かの報酬を期待してでもなく、ただ、イエス・キリストに対する思いから、そのように自分の持ち物を出し合って奉仕したのです。

これらの女性たちが仕えたのは、イエス・キリストお一人に対してだけではありませんでした。イエスに従う「一行に」奉仕したのです。この女性たちの働きに支えられて、イエス・キリスト一行のガリラヤ伝道は継続されていったのです。

のちにパウロはその手紙の中で「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)と書いていますが、イエスに従う人々は男も女も仕えあう共同体だったのです。