2009年6月11日(木)ただ信じなさい(ルカ8:49-56)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

ラテン語の言葉に「不合理なるがゆえに、我信ず」という言葉があります。そんな言葉を耳にすれば、だから宗教は困るという反論が返ってきそうです。確かに不合理なものまで何でもかんでも信じてしまったら、それこそ迷信まで信じてしまうことになってしまいます。
しかし、逆に人間の理性が納得できるものだけを信じるのだとすれば、結局は聖書に記されていることはほとんど信じられないということになってしまいます。やはりどこかで理性には納得できないことを敢えて受け入れるところに、信仰の営みがあるように思います。
きょう取り上げる聖書の箇所には「ただ信じなさい」と呼びかけるイエス・キリストの言葉が出てきます。このイエスの言葉にどう応えていくのか、そのことの大切さをきょうの箇所から学んでいきたいと思います。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 8章49節〜56節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

きょう取り上げた箇所は、先週取り上げた話の続きです。会堂長ヤイロの娘が死ぬ程の病で床に伏せっています。父親であるヤイロは、それこそ藁をもつかむ思いでイエス・キリストに助けを求めてやって来ました。
ところが途中で思わぬ妨害が入ってしまい、イエス・キリストを思うように自分の所までお連れすることができません。そうこうするうちに娘の死を告げる知らせがヤイロのもとに届きます。正にその知らせが届く場面からきょうの話は始まります。

今、途中で起った事件を「妨害」という言葉で表現しました。もちろん、途中起ったことは、意図的な妨害ではありませんでした。ヤイロの娘と同じように、病を癒していただきたいと願う一人の婦人の話でした。確かに緊急性という判断からすれば、途中で割り込んだ女性の方にはそれほどの緊急性はなかったかもしれません。しかし、病を得た一人の人間として、癒していただきたいと願う思いは同じです。
けれども、イエスを迎えに来たヤイロにとっては、とんだ妨害と感じられたことでしょう。いったいどれだけの時間が流れたのかは分かりませんが、ヤイロにとっては一分が一時間にも長く感じられたかもしれません。まるでヤイロ自身の信仰と忍耐が試されているような場面です。
それでも、何とか間に合って娘を助けていただくことができたのならば、ヤイロの忍耐も報われるかもしれません。ところが、途中で時間を取られるうちに、とうとう娘が亡くなったとの知らせを耳にするのです。

「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」

ヤイロの心の中には悲しみと憤りが渦巻いたことでしょう。やるせない気持ちでいっぱいだったに違いありません。家から届いた知らせの中にあった「この上、先生を煩わすことはありません」という言葉に半ばヤイロも同じ思いだったにちがいありません。

死というものは誰にでも襲ってくるものです。しかし、必ずしも年齢の順番に規則正しく襲ってくるものではありません。ヤイロの娘のように、時として、子供が親に先立って世を去ることもあります。自分たちが思い込んでいた順番と違うことが起る時に、わたしたちの驚きと悲しみは一層深いものになります。
もちろん、年の順番に人が死に、何歳まで生きたから十分に納得できる死というものはありません。残された者にとっては納得の死などというものはほとんどないことでしょう。しかし、納得がいかないからといって、納得行くまで死が待っていてくれるわけではありません。ほんとうに待ったなしに突然襲ってくるのが死です。

そうであればこそ、誰かの死に直面する時に、もちろん自分自身の死に直面する時もそうですが、その死を受け止めて乗り越えていく信仰が求められているのです。

では、死はどのように受け止められ、乗り越えられていくのでしょうか。仕方のないこととあきらめるより他はないのでしょうか。

そんなヤイロに対してイエス・キリストがおかけになった言葉は「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」というものでした。

確かに、ヤイロの悲しみには娘の死という現実の理由がありました。死という人間にはどうすることもできない現実を前にヤイロが絶望的な思いになったとしても、誰にもそれを非難することはできません。もちろん、イエス・キリストもヤイロを非難しているのではありません。そうではなく、ヤイロの信仰を呼び起こしているのです。

「娘は救われる」とおっしゃるイエス・キリストの言葉が真実であるかどうか、今まで何人もの人間の死を目にしてきたはずのヤイロの経験と常識では、どうしても否定的な答えしか見出せないはずです。その経験と常識を超えて信じることができるとすれば、それはそうおっしゃるイエス・キリストへの信仰と信頼とによる他はないのです。

「ただ信じなさい」というのは、娘が救われることをただ信じなさいという意味ではありません。その娘を救うイエス・キリストに信頼を置くことを求めていらっしゃるのです。

信じるということは、イエス・キリストと切りはなして成立することではありません。前代未聞の奇跡が起るか起らないかを信じるのではなく、その奇跡をもたらして下さるイエス・キリストを信じる信仰、このお方をただ信じる信仰が求められているのです。イエス・キリストへの信頼がないところで、いくら奇跡が起ったとしても、その奇跡には意味がありません。そうであればこそ、イエス・キリストも娘の両親に対してこの出来事をだれにも話さないようにとお命じになったのです。
死に勝利されるイエス・キリストを信じて疑わない信仰こそが、死に対する悲しみと絶望からわたしたちを解き放つことができるのです。