2009年7月16日(木)イエスに従う覚悟(ルカ9:23-27)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「殉教の死」という言葉は、もうずっと遠い昔のことのように感じるかもしれません。基本的人権についての理解がこれほどまでに浸透している現代では、迫害によって命を落とすことなどあってはならないと誰もが思っているかもしれません。しかし、現実には1900年代以降、今日に至るまで、迫害によって命を落としたクリスチャンの数は、それまでのどの時代よりも多いと聞いたことがあります。
迫害や殉教とまでは至らなくとも、クリスチャンであるがために不当な扱いや嫌がらせを受けた経験があると言う人はたくさんいることでしょう。
今日取り上げようとしている箇所には、イエスに従う者たちの覚悟についてイエス・キリストの言葉が記されています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 9章23節〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

前回学んだ個所で、イエス・キリストは弟子のペトロの信仰告白を受けて、近い将来ご自分の身の上に起るべきことを予告なさいました。それは民の指導者から排斥され、殺され、三日目に復活されるメシアの姿です。
ペトロがその予告の言葉をどう受け止めたのかは、ルカによる福音書にはあえて記されていません。しかし、他の福音書を読む限り、ペトロはイエス・キリストのこの発言を受け止めきれずに、イエスを脇へ連れ出して諌めたと記されています。そして、それがためにペトロはイエス・キリストから厳しい叱責の言葉を受けます。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8:33)

人を罪から解放するメシアの務めにとって、メシアの苦難は避けて通ることができないのです。いえ、そればかりではありません。きょう取り上げた箇所で、イエス・キリストはご自分に従う者たちの覚悟についてお語りになっているのです。イエスをメシアと告白し、イエスに従おうとする者誰もが心に留めなければならない言葉です。

「それから、イエスは皆に言われた」とあります。「皆」とは直前に出てくる弟子たち「皆」というふうにも受け取れなくはありません。つまり、選ばれた十二人の弟子たちの覚悟をイエス・キリストは語ったのであって、すべての信者について言っているわけではないと言うことです。

しかし、同じことを記したマルコによる福音書では、場面が変わり、「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」(マルコ8:34)とありますから、聞き手は十二弟子ばかりではなく、群衆もこのイエスの言葉を耳にしたのです。それはメシアとしてのイエスの後について行こうとするすべての者が耳を傾けるべき言葉なのです。

イエス・キリストはおっしゃいます。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

イエス・キリストについて行こうとする者には三つのことが求められています。一つは自分を捨てること、もう一つは自分の十字架を背負うこと、そして、三つ目はイエスに従い続けることです。

自分を捨てるとは自己を否定する生き方です。この場合の自己否定とは、神に勝って自分を第一としない生き方です。神の御心をなによりも第一として生きる生き方です。イエス・キリストご自身がゲツセマネの祈りの中で「わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」とおっしゃって十字架への道を決意されました。そのイエス・キリストに習う道です。

十字架を背負うというのは、文字通りに取れば、十字架刑に処せられた囚人が、処刑場までの道のり、自分が磔になる十字架の横木を背負って歩くことです。もちろん、ここでは文字通りの意味ではなく、苦難を背負う例えとしてそう言われているのです。イエス・キリストが自分から進んで苦難の道を歩まれたように、イエスのあとについて行く者にもその覚悟が必要です。
しかも、「日々」といわれています。

「日々、自分の十字架を背負う」というイメージは、同じ十字架を毎日背負い続けると言うよりは、日々新たに苦難を背負うというイメージです。一難去ってまた一難、繰り返されるように襲ってくる苦難を、その日毎に受け止める姿勢です。

なぜ、自分を捨て、日々自分の十字架を背負い、イエスに従いつづけることが大切なのでしょうか。それは、終末的な逆転劇があるからです。目先の成功ではなく、世の終わりを見据えているからです。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

そもそも、命は自分ではどうすることもできないものです。命を与えてくださる神に委ねるしかありません。神の御心にすべてを委ねて歩む時にこそ、神は御心のままに永遠の命をお与え下さるのです。

一時の成功で全世界を手に入れたとしても、世の終わりの時に自分自身の命を失ってしまったとしたら元も子もありません。いえ、終末の時を待つまでもなく、神に自分を明渡さない生き方は、自分を得ているようで自分を失っているのです。

イエス・キリストはさらにおっしゃいます。

「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」

イエスを否定し、この世と迎合する生き方は、当座はうまくいっているようでも、世の終わりに来た時にどんでん返しを喰らうのです。

では、このイエスの言葉を聞いた弟子たちは、イエスの言葉どおりに生きることができたのでしょうか。そうではありません。逮捕され、裁判にかけられるイエスを見捨てて逃げてしまいました。挫折を経験したのです。しかし、それでも神から赦されて従う恵みを経験したのです。
わたしたちにとってもキリストのこの言葉は実行するのに難しい言葉です。大切なことは、神の助けと赦しをいつも求めながら、従いつづける気持ちを捨て去らないことです。