2009年9月17日(木)イエスの喜び(ルカ10:21-24)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

今年はいわゆる安政五ヶ国条約によって横浜や長崎などの港が開港されて150年、最初のプロテスタント宣教師たちが来日して150年を迎える年に当ります。それで、プロテスタント宣教を記念した催しがあちらこちらで開かれ、この150年間にわたる日本プロテスタント宣教の歴史を回顧する機会が与えられました。
その際によく囁かれるのが、なかなか進展しない日本宣教の現実です。150年たってもまだ人口の1%を超えることができない原因が何処にあるのかという論調です。しかし、150年かけて人口の1%に達したと言う事実をどう評価するのかは、そんなに簡単ではないように思います。いったい同時代の150年間の何と比べて遅いと評価するのでしょうか。同じ時代の150年間、他の国でどれだけキリスト教が普及していったかと言うことと比べて、遅いというのでしょうか。1859年当時、ほとんどキリスト教の影響を受けておらず、なおかつその後もキリスト教国によって植民地化されなかった国で、150年の間にキリスト教の普及率が人口の1%を超えた国と言うのはどれくらいあるものなのでしょうか。
残念ながらわたしの手元にはそういった研究の資料がありません。
しかし、それよりもわたしにとって関心があるのは、イエス・キリストはこの状況をどうご覧になっていらっしゃるのだろうかと言うことです。あるいは、イエス・キリストならば、日本の片田舎で細々と伝道を続けてきた教会が、その町に与えつづけた影響にもっと深い関心を寄せられているのではないかと思うのです。
きょう取り上げようとしている箇所には、伝道旅行を終えて帰ってきた七十二人の弟子たちの報告を聞いて、イエス・キリストが喜びの声を上げたことが記されています。いったいイエス・キリストは何を喜びとされたのでしょうか。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 10章21節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

きょう取り上げた箇所には、イエス・キリストの喜びの声が記されています。この喜びが、その前の17節で言われている、伝道から戻った七十二人の弟子たちの「喜び」に呼応したものであることはいうまでもありません。しかし、ここには「聖霊によって喜びにあふれ」と言われていますから、イエス・キリストがお感じになったのは単に個人的な感想に留まると言うのではないでしょう。
この喜びに満たされてお語りになったイエス・キリストのお言葉は、先ず第一に父なる神への祈りの言葉でした。次いで弟子たちにもその喜びが語られます。

独白とも取れる神への祈りの中で、イエス・キリストは「幼子のような者」に啓示の光をお与えになった父なる神をたたえています。
「幼子のような者」とは直前に言われる「知恵ある者や賢い者」に対比される言葉です。この場合の「知恵ある者や賢い者」というのは、直接的には当時の宗教的な指導者たちを指しているのでしょう。彼らこそ救いの知恵を授けられた者と自分たちを見なしていたのです。ですから、彼らの口からは「律法を知らないこの群衆は、呪われている」(ヨハネ7:79)という言葉が飛び出したり、ペトロやヨハネを見て「無学で普通の人」であることを驚いたりしたのです(使徒4:13)。
けれども、その「知恵ある者や賢い者」にではなく、律法など知らないだろうと蔑まれ、無学で普通の人と呼ばれた弟子たちに神は救いの知恵を授けられたのです。そのことをイエス・キリストは喜んでいらっしゃるのです。

もっとも、「知恵ある者や賢い者」と対比させて言うなら、「幼子のような者」とは言わずに「無知で愚かな者」という言い方もできたはずです。しかし、イエス・キリストは弟子たちを「無知で愚かな者」とはおっしゃらずに、あえて「幼子のような者」だとおっしゃいます。
「幼子」は大人のような頼りがいのある者ではありません。未熟で弱い者たちです。しかし、親の庇護のもとにあると言う点では、誰よりもそうなのです。親の庇護のもとで安心しきって生きているのが幼子です。それは習得した知識がそうさせていると言うよりも、まさに親に対する信頼が安心しきった思いを作り出しているのです。
神との関係で、弟子たちはそういう幼子のような者だと言われているのです。そして、そういう幼子にような弟子たちに救いの福音が明らかにされたことをイエス・キリストは喜んでいらっしゃるのです。

しかも、弟子たちに伝えられた福音の真理は、父なる神とイエス・キリストだけが互いに知っている真理に他なりません。その真理がキリストによって特別に弟子たちにもたらされたのです。他の誰でもない幼子のような弟子たちに伝えれていることを、キリストは喜んでいらっしゃるのです。

イエス・キリストはまた弟子たちに向かって直接、その喜びをお語りになりました。

「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

人は誰しも生まれてくる時代を自分で選ぶことはできません。自分の生きている時代を受け止め、受け入れるしかありません。
ここで、イエス・キリストは、先の時代の預言者や王たちが不幸だといっているのではありません。それぞれの時代に神は救いの道筋をお語りくださいました。その福音を聞いて、その時代の人たちは希望を抱いて生きることができたのです。
しかし、イエス・キリストを通して示される福音の真理ほど明らかなものはなく、イエス・キリストを通して示される神の愛ほどはっきりとしたものを、それまでの時代の人々は見ることができなかったのです。そうした救いの実現を目の当たりにしている弟子たちの幸いをイエス・キリストはお喜びになっているのです。

大した者ではないわたしたちに福音が委ねられ、大した者ではないながらも神を信じつつ、福音を伝えることが許されている幸いを、イエス・キリストと共に喜びたいと思います。それはキリストが到来するまで、誰も味わうことができなかった幸いだからです。