2009年11月26日(木)律法主義者のわざわい(ルカ11:45-54)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

もし教会の牧師が、自分に出来ることだけを信徒に教えたとしたら、クリスチャンとしての生き方全体を聖書から語ることが出来なくなってしまいます。結果、生まれてくるのは中途半端で妥協的なクリスチャンです。
しかし、反対に自分でもできないことを強引に信徒に要求すれば、福音そのものをゆがめてしまいます。結果として生まれてくるのは、偽善的で律法主義のクリスチャンです。
これら両極端の誤りのどちらかに陥らないで歩むということは決して簡単なことではありません。
きょう取り上げようとしている箇所に出てくるのは、律法主義に生きる指導者のわざわいです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 11章45節〜54節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」
イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。

きょうの箇所では律法の専門家が声をあげます。ここで声をあげた律法の専門家というのは、イエス・キリストを食事の席に招いたファリサイ派に属する律法学者でしょう。
食事の席でファリサイ派の人々のわざわいについて歯に衣を着せずに語るイエス・キリストの言葉に反応して、声をあげます。

「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」

しかし、イエス・キリストはこの律法学者たちの問題点をも厳しく指摘なさいます。その言葉は、ユダヤ教の律法学者に対する厳しい批判であると同時に、わたしたち、キリスト教会の中に潜む問題に対する指摘としても、真摯に耳を傾けなければならない事柄です。

イエス・キリストは「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」律法学者の態度を指摘します。

まずここで注意をしなければならないことは、イエス・キリストは律法そのものを重荷として扱っているのではないということです。
そうではなく、救いの手段として律法を守るために、律法には直接記されない様々な規定を設け、それらを守らせようとしているそのことを指して、「人には背負いきれない重荷」といっているのです。

どんなに律法を細分化してなすべきことを具体的に規定したとしても、それを行う人間の弱さや罪深さに対する理解と憐みがなければ、やがてそれは負いきれない重荷でしかなくなってしまうのです。
いえ、そもそも律法を行うことで救いが達成されると考えるところに、人間の弱さや罪に対する深い考察が欠けているのです。欠けているからこそ、他人に対する憐みに欠けていてもそれに気がつくことがなく、自分自身を特別に優れたものであると考えても、平気でいられるのです。

罪深く弱いわたしが何故救われるのか、ということを真摯に考えるならば、ただ、神の憐みによる以外に望みのないことは明白です。罪人であるからこそ救われる必要があり、弱いものであるからこそ、助けが必要なのです。それは自分も含めたすべての人がそうなのです。

神の憐みに生きる人、言い換えれば、神の与える福音に生きる人は、自分と同じように他の人たちも神の憐みによって救われ、自分と同じように他の人たちも福音によって生きることを望む人であるはずなのです。
神が忍耐と寛容をもって自分を扱ってくださったように、そのように他人の弱さを忍耐と寛容をもって受けとめ、神の救いがその人に及び完成へと至るようにと願うべきなのです。

イエス・キリストはさらに律法学者のわざわいを指摘します。

「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。」

律法学者が先祖たちの殺した預言者の墓を建てるのは、決して自分を加害者の側に置いて考えているからではありません。自分たちの先祖が神の言葉に耳を傾けずに犯した過ちを指摘はしますが、自分たちはその過ちを繰り返す可能性のある者だとは考えていないのです。
イエス・キリストはその彼らの考えを指摘なさっているのです。

実際、律法学者たちはこのあとイエス・キリストを十字架にかけることに賛成します。またキリストを信じた同胞たちを会堂から追放します。
もし、神の言葉に真摯に耳を傾け、自分たちもまた先祖と同じ過ちを繰り返す可能性があることを謙虚に認めていたとすれば、神から遣わされたキリストを十字架につけるようなことはしなかったことでしょう。
神の言葉にも神の律法にも誤りはありません。しかし、それを受け止め、それを理解するわたしたちには間違うことがあるのです。

最後にもう一つ、イエス・キリストは律法学者のわざわいを語ります。

「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」

ここでイエス・キリストがおっしゃっていることは、神の国に入るための知識の鍵です。その知識の鍵は言うまでもなく神の言葉の中にあります。律法学者が律法を研究するのはその鍵をこそ見つけ出し、その鍵をこそすべての人に明らかにするためであるべきはずです。

イエス・キリストは別の箇所でこうおっしゃっています。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)

律法学者たちは聖書を研究することで、神の国への鍵であるキリストをこそ見出し、キリストへと人々を導く務めがあったはずです。しかし、彼らはあらぬ聖書の読み方をし、人々をキリストから遠ざけてしまったのです。

聖書を読んで、そこにキリストとの出会いが生じないとすれば、それはとても空しい聖書の読み方なのです。