2010年3月25日(木)弟子になる覚悟(ルカ14:25-35)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

イエス・キリストを信じて従っていく、キリストの弟子になるということを、あまり難しく考えすぎてしまえば、誰もクリスチャンになることなどできません。完璧に従うことができるほど完全な人間がいるとすれば、そもそもその人に救いが必要なのかと思ってしまいます。
しかし、何の覚悟も犠牲もなく、ただありのままに今までと何も変わりのない生き方で、キリストの弟子であり続けることはできません。
きょう取り上げようとしている個所で、イエス・キリストは弟子として覚悟を決めなければならない犠牲についてお語りになっています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 14章25節〜35節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

きょう取り上げる個所は、前回までの学びとは場面が変わっています。前回までの学びでは、あるファリサイ派の人から招かれた食事の席での出来事が記されていました。その食事の席でイエス・キリストは、民の指導者たち、特にファリサイ派の人々の、神の御前で生きる信仰者としてのあり方を厳しく批判されました。

きょうの個所は、その食事の席を離れて再びエルサレムへ向かう旅の途上での出来事を扱います。教えの聴き手もファリサイ派の人々からイエス・キリストの後についてきた群衆たちに変わります。
しかし、ここで語られる教えの内容は、前回取り上げた個所と密接につながっています。
前回取り上げた『大宴会のたとえ』では、招かれた人々は宴会の開かれる時間になって次々と招待を辞退しました。それに対して、きょう取り上げる個所で扱うのは、神の国へ招きに応じて、キリストに従おうとする者たちへの教えです。

さて、きょうの個所では、イエス・キリストの弟子として覚悟を決めておくべきことについて、二つのことが語られます。一つは家族との関係であり、もう一つは十字架を背負う覚悟です。

イエス・キリストは家族との関係について、こうおっしゃいました。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」

「憎む」という言い方を文字通りに受け止めれば、これは随分ひどい教えです。第一、「父と母を敬え」という聖書の教えに反します。また、自分を憎んでしまったなら、「自分を愛するように自分の隣人を愛しなさい」という隣人愛の掟すら実行できなくなってしまいます。

マタイによる福音書の10章37節には、同じイエス・キリストの言葉としてこう記されています。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」

また、ルカによる福音書16章13節ではこう言われています。

「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」

これらの言葉から考えて、「憎む」と言う言葉の意味は「一方を愛するために、他方を軽んじる」という意味です。つまり積極的に憎むというよりは、一方の優先順位を上げるために、他方の優先順位の付け方を低くすることです。

イエス・キリストは、弟子としてどこまでもご自分に従うことを最優先させるようにと求めていらっしゃるのです。言いかえれば、それは本当の主人が誰なのかということをはっきりと自覚することです。それはわたしでも家族でもなく、イエス・キリストだけが自分の主であることを認める生き方です。
イエス・キリストはそういう生き方を求めていらっしゃるのです。

第二に、イエス・キリストは十字架を背負う覚悟を求めていらっしゃいます。

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

この場合の「十字架」も、けっして文字通りの「十字架」ではありません。文字通り、十字架での処刑を覚悟してローマ帝国に抵抗する決意を求めたものではありません。ここでいう「十字架」とは、イエス・キリストの弟子であるために引き受けなければならないあらゆる苦難と犠牲を指しています。キリストを主人として従う道は、決して何の犠牲も伴わないものではないからです。

だからこそ、イエス・キリストは、弟子であることのコストがどれほどのものであるのか、よく考えるようにと勧めます。
塔を建てる者が、その費用をよく計算してから建築に取り掛かるように、また、戦いに出ようとする王が、この戦いに勝ち目があるのかどうか、よく考えてから出陣するように、それと同じように、イエス・キリストの弟子であり続けるコストをよく知って覚悟を決めるようにと勧めています。

さて、このような覚悟のことを考え始めたならば、誰しもイエス・キリストの弟子になることは無理だと諦めてしまうかもしれません。
確かに、自分が自分の主人である限り、この覚悟はいつまでたってもできないでしょう。矛盾かもしれませんが、自分の力で覚悟を決めるのではなく、主にゆだねるときに、言い換えれば、イエス・キリストこそ自分の主であることを認めた時に、弟子となるコストに見通しがつくのです。