2010年4月15日(木)誤解を正そうとする神(ルカ15:25-32)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「親の心、子知らず」という諺があります。親は子供のことをいつも心配しているのに、子供はそんな親の気持ちには無頓着で、好き勝手なことばかりしていることを言います。
イエス・キリストがお話下さったたとえ話に出てくる放蕩息子は、まさに「親の心、子知らず」という諺にぴったりです。では、放蕩息子のお兄さんの方は、父親の心を知っていたのでしょうか。きょうは放蕩息子のたとえ話の後半を取り上げます。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 15章25節〜32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

今日取り上げるのは「放蕩息子のたとえ話」の後半部分です。今までにもお話しした通り、ルカによる福音書の15章はこの「放蕩息子のたとえ話」を含めて、三つのたとえ話から成り立っています。三つのたとえ話に共通していることは、失われた者に対する神の愛です。
神のみ前から迷い出た罪人を神はけっして失われるがままに放置されるのではありません。
そういう意味で、イエス・キリストのもとへとやって来たを徴税人や罪人を喜んで迎え入れることは父なる神の御心なのです。

イエス・キリストはこの三つのたとえ話を通して、徴税人や罪人と食事を共にしたことを批判するファリサイ派の人々や律法学者たちに、神の御心にそったご自分の立場を明らかにされていらっしゃるのです。

けれども三番目のたとえ話である「放蕩息子のたとえ」は、他の二つのたとえ話とは違った趣をもっています。
いなくなった羊のたとえも、なくなった銀貨のたとえも、失われたものはたくさんあるうちの一つでした。当然、話の焦点はいなくなった一匹の羊やなくなった一枚の銀貨にあてられます。

では、放蕩息子のたとえでは、いなくなった弟息子にだけ話の焦点があるのかというと、そうではありません。父の家にいた兄息子は、残っていた九十九匹の羊や、九枚の銀貨と同じなのでしょうか。いえ、けっしてそうではありません。

罪人やそれを迎え入れるイエス・キリストを傍観者のように非難してきたファリサイ派の人々を、イエス・キリストは巧みにたとえ話の中に織り込んでいるのです。しかも、父のもとにとどまった兄を、親の心を知る忠実な息子としてではなく、父の心を知らない息子として描いているのです。

畑仕事から戻った兄息子は、家の中から聞こえる楽しげな音楽や踊りのざわめきを耳にして、心がすっかり冷たくなっていきます。楽しげなざわめきが聞こえてくれば、自分から真っ先に家に飛び込んでいくのが普通でしょう。
しかし、兄息子はちっとも楽しい気分にはなれなかったのです。自分でことの次第を確かめようとはしないで、わざわざ僕に家の様子を尋ねます。しかも、この楽しそうな宴会が、帰ってきた弟のために開かれているのだと知ると、ますます心を頑なにして、もはや家の中に一歩たりとも足を入れようとしません。

すると、またしても父が家から出てきます。弟息子の時も父親が家から出てきて迎え入れましたが、今度もまた家に入れない兄を迎え入れようと父親が自分から出てきます。

兄息子はそんな父親に対して、今までの不満を一気にぶちまけます。自分が息子としてではなく、奴隷のように何年も仕えてきたこと、一度たりとも言いつけに背いたことがないこと、それなのに、友達と楽しむために子山羊一匹すらくれなかったこと。ところが、身上を食いつぶしたろくでもない弟が帰ってきたら肥えた子牛を惜しみなく屠ってやっていること。いえ、兄息子は自分の弟を「わたしの弟」とすら呼びません。「あなたのあの息子」とわざわざ呼んで、自分との関係を拒んでいます。

「親の心、子知らず」とは兄息子にも当てはまるのです。

この父親は自分の心を理解しない兄息子を、諭そうと心から優しい言葉をかけます。子山羊一匹すら与えなかったどころか、「わたしのものは全部お前のものだ」とずっと思ってきた父だったのです。

父なる神は、文字通り神のもとを離れて行った罪人が再び戻ってくるのを喜んで迎えれてくださいます。そればかりか、神のそばにいるようで心が神から離れている者たちをも、ご自分のもとに戻ってくるように、ご自分と心を通わせるようにと、ご自分から出てきて迎え入れてくださるのです。

放蕩息子のたとえ話の後半は、けっして付け足しではありません。むしろ、この後半部分に描かれる兄息子に対しての父親の態度と言葉こそ、ファリサイ派の人々や律法学者たちが心に留め置くべきことだったのです。

イエス・キリストは彼らの心がどこにあるのかを鋭く指摘してます。律法を守ることにかけての熱心さは非の打ちどころがないほどであったでしょう。しかし、それは父なる神の御心を知って、喜んでそれに従っているいというものとは、おおよそかけ離れたものだったのです。それは喜びのない、ただ義務感だけがそうさせている宗教生活なのです。しかも、そこから生まれてくるものは、弱い隣人に対する深い憐れみの心や共感の思いではなく、弱い人をさげすみ、弱い人との交わりを拒む思いです。

しかし、そういう彼らをさえも、深くて広い心で迎え入れようとなさっていらっしゃるのが、天の父なる神のお姿なのです。

今を生きるわたしたちが、徴税人や罪人と呼ばれる者たちのようであれ、あるいは、ファリサイ派や律法学者たちのようであれ、いずれにしても、父なる神の御心から迷い出たものであることは間違いないのです。そして、この迷い出て、さ迷い歩くわたしたちを見出し、ご自分の方から出てきて迎え入れてくださる神のお姿を、イエス・キリストはこのたとえを通して示してくださっているのです。