2010年8月5日(木)何の権威によって(ルカ20:1-8)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

人類の始祖、アダムとエバから生まれた最初に生まれた子カインは、ある日、弟のアベルを殺害します。そのことを神から問いただされたカインは「知りません」と答えました。
もちろん、自分がやったのですから、知らないはずはありません。不都合なことには「知らぬ、存ぜぬ」で通してしまうのは、今も昔も変わらない人間の罪深さです。
きょう取り上げる個所にも、真理を知りながら、「わかりません」と答えて、自分の都合で真実を認めようとしない人間の罪深さが描かれています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 20章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

先週取り上げた個所には、エルサレムに入城されたイエス・キリストが、神殿の境内で商売する者たちを追い出された様子が記されていました。この後、数日でイエス・キリストは裁判にかけられ十字架におかかりになります。もちろん、これから起ころうとしているこの恐ろしい事件を予測できた人が、いったい何人いたかは分かりません。ただ、イエス・キリストご自身はそのためにご自分が遣わされたことを知っていました。
それでその日がやってくるまで、残された日々、イエス・キリストは神殿の境内で毎日人々に福音を伝え、人々を教えていたのでした。

しかし、そういうイエス・キリストのことを心よく思わない人々がいました。先週学んだ個所には「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」と記されていました。
民の指導者がイエス・キリストを殺そうと思いながら、なかなか手を下すことができずに、躍起になっている様子が目に浮かぶようです。

きょうの個所はそうした民の指導者たちのいらだちが背景にあります。祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、イエスの権威について問いただします。

「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」

このような質問を問いかけるのは、決して何の権威でこのようなことをしているのか、そのことを知りたいからではありません。むしろイエス・キリストには権威がないことを暴き、人々の関心を一気に引き離してしまおうとするものでした。そこには神が遣わされたお方に対する関心のかけらも感じられません。

こうした質問に対して、イエス・キリストもまた質問をもってそれに答えます。

「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」

この問いに対する答えは、すでに彼らの洗礼者ヨハネに対する態度で回答済みでした。7章29節30節にはこう記されています。

「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」

彼らはもうすでにその態度をもって、ヨハネの洗礼が天からのものであることを拒絶していたのでした。自分たちがとった態度の通りに答えるならば、彼らはヨハネの洗礼を神からのものとは認めていなかったのです。
もし神からのものであることを認めていながら、ヨハネからの洗礼を受けなかったとなれば、それこそ自己矛盾した生き方になってしまいます。それでは自分たちに対する信用が失われてしまいます。
実際にとった態度からいっても、また、自分たちに対する信用を保つという目的からしても、イエス・キリストの問いかけに対する答えは一つしかありません。

しかし、「人からのものだ」と言ってしまえば、ヨハネに対する民衆の気持ちがそれを許しません。なぜならすでに見たように、民衆はヨハネの教えを聴いて悔い改めの洗礼を受け、神の正しさを認めているからです。それを否定してしまうような答えをすれば、民衆を敵にまわすことになります。
イエス一人を取り押さえて、騒ぎが起こるのを未然に防ごうとしたのが、かえって民衆までも騒ぎに巻き込んでしまったなら元も子もありません。

民の指導者たちは、結局のところ答えを曖昧にしてしまうよりほかはありませんでした。自分たちの信じるところがありながら、しかし、自分の立場を守るために「わからない」と答えを濁してしまったのです。

そもそも、洗礼者ヨハネが説いたものは、悔い改めの洗礼でした。民の指導者達は、神がヨハネを通して求めている悔い改めの機会をすでに無にしていました。しかし、悔い改めに遅すぎるということはありません。イエス・キリストから改めて問われて、この場で悔い改めることもできたはずです。神の権威のまえに膝をかがめて、自分たちがした愚かな行いを告白すればよかったのです。しかし、そのチャンスさえ、心を頑なにして逃してしまうのです。

この頑なな態度にイエス・キリストは嘆かれます。

「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

この言葉は決して意地悪から出た言葉ではありません。神からの問いかけに真剣に向き合おうとしない民の指導者に対する失望からの嘆きです。彼らの答えが、どっちであったとしても、それが彼らの確信するところを正直に答えたものであったとしたら、イエス・キリストはその答えに対して真剣な応答をしたことでしょう。
しかし、民の指導者たちは、イエス・キリストが向けようとしている問題に心を向けず、問題から目をそらして違うものを見て、答えを濁しているだけなのです。

これは決して他人事ではありません。神は今もなおわたしたちが悔い改めて神のもとへと立ち返ることを望んでおられます。その神の真実な招きに対して、「わかりません」と自分のとるべき態度をごまかしてはならないのです。