2010年9月9日(木)律法学者とやもめの信仰(ルカ20:45-21:4)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

大変残念なことですが、どこの社会にも社会的な弱者や社会の底辺に追いやられた人たちがいます。そして、そういう人たちは大抵の場合、模範的な人間像として取り上げられることがありません。もちろん、底辺から這い上がって成功を収めたという人なら別です。
しかし、社会的な地位があったり、成功している人間が、皆、模範的な人間かというと、必ずしもそうではないのがこの人間社会の不思議です。
きょう取り上げようとしているイエス・キリストの言葉は、神の前に生きる人間のあり方が問われているように思います。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 20章45節〜21章4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

今日取り上げた箇所には、対照的な人間像が描かれています。一方は当時のユダヤの宗教界では指導的立場にある律法学者たちです。もう一方は名もない一人の寡婦の姿です。しかも、イエス・キリストの言葉によれば、「律法学者はやもめの家を食い物にしている」と言われていますから、この両者は無関係なところに暮らしている人々ではなく、むしろ隣合わせに生活し、しかも、こんなにも接したところで暮らしていながら、その生き方はまったく対照的なのです。

まず、律法学者のことから見てみましょう。
そもそも律法学者というのは、モーセの律法を教え、モーセの律法を解釈する人たちでした。特に口頭で伝えられた律法の担い手でした。福音書の中ではファリサイ派の人々と共に登場することが多く、「ファリサイ派の律法学者」と呼ばれることもあります(ルカ5:30)。もちろん、律法学者のすべてがファリサイ派であったわけではありません。
口頭で伝えられた律法を担っているという点で、イエス・キリストは彼らを非難して「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(マルコ7:8)とおっしゃったことがありました。
人間の言い伝えによる律法の解釈と実践は、人間が律法を守るために工夫された、当座は人間にとって優しい律法解釈であるかも知れません。しかし、イエス・キリストの指摘によれば、結局は神の律法全体の体系と相いれなくなって、破綻を来しているということなのです。

きょう取り上げる個所でイエス・キリストが律法学者について非難している点は、律法の解釈それ自体をめぐってのことではありません。そうではなく、神の御前での彼らの生き方そのものについてです。もちろん、そのような生き方をたどっていけば、結局は彼らの律法理解の破綻と深く結び付いているのかもしれません。

イエス・キリストはおっしゃいます。

「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」

もちろん、イエス・キリストが問題としていらっしゃるのは、長い衣それ自体ではありません。挨拶をされることそれ自体でもありません。上席や上座それ自体が悪いのでもなく、またそこに座ってはいけないともおっしゃってるわけではありません。あるいは長い祈りそれ自体を問題とされているわけではありません。もちろん、やもめの家を食い物にすることは、それ自体がいけないことは言うまでもありません。しかし、その点を除けば、ここでイエス・キリストが問題にされていることには、どんな共通した問題点があるのでしょうか。

それは、彼らがそうすることを欲していたり、好んでいたりするという点です。長い衣で歩き回るのも、広場で挨拶されるのも、上席や上座に座るのも、それを律法学者たちは好んだり欲したりしているということです。そして、それを好んだり欲したりするのには動機があります。
それはひとえに、人の目に良く映りたいという願いです。イエス・キリストがはっきりと「見せかけの長い祈り」とおっしゃっているのと同じように、長い衣を着て歩きまわることにも、広場で挨拶されることにも、上席上座に座ることにも、中身が伴っているというわけではないのです。それは見せかけだけのことで、そこに人間として尊敬に値するような実質がほんとうに伴っているわけではありません。
それにもかかわらず、人の目にどう映るかということを第一に考えて、神の前での生き方をすっかり忘れてしまっているところに、すべての行動を説明する共通の問題点があるのです。その結果、やもめの家からでさえも、尊敬を強要してむさぼったとしても、何も気がつかない鈍感さで過ごすことができるのです。

こうしたことをイエス・キリストがお語りになったのは、ただ律法学者への非難ということではありません。そうではなく、これを弟子たちへの注意とされたのです。律法学者が特別に悪い人たちだということではなく、むしろ、上に立つものが陥りやすい点に注意を喚起したのです。

さて、この律法学者とは対照的なやもめについて、イエス・キリストは語られます。

その貧しいやもめは、全生活費であるレプトン銅貨二枚を献金に捧げました。一レプトンは当時の日雇い労働者の一日分の賃金の128分の1に相当する金額ですから、二枚ささげたとしても、ごく小さな金額です。ただし、このやもめにとっては、持っている生活費の全部でしたから、決して痛くも痒くもないような小さな額ではありません。

このやもめの献金をご覧になったイエス・キリストはおっしゃいます。

「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

金額だけのことを言えば、「だれよりもたくさん入れた」とはいえない金額であることはすでに述べたとおりです。それにもかかわらず、イエス・キリストはこのやもめの献金こそ、「だれよりも多い」とおっしゃいます。
その理由は、この献金が有り余る中から捧げられたものではなく、生活そのものを犠牲にして捧げられたものだからです。レプトン銅貨二枚を捻出するのに、このやもめが払った犠牲の大きさが献金の大きさとして量られているのです。

しかし、このやもめの献金の話を、犠牲の大きさという点で理解することだけでは十分ではありません。前半で取り上げた、人の評価を気にする律法学者の態度とも比べて理解しなければなりません。
このやもめが人目を気にせずに、自分で決めたとおりの額を献金したことは言うまでもないことです。けれども、それは神の目を気にしたからだ、という消極的な理由では決してありません。神によってすべてが支えられているという感謝と喜びとを抜きにして、このやもめの献金を理解することはできません。誰の前でもなく、ただ、神の御前に喜びと感謝をもっていきたいと願うこのやもめの生き方が、献金の姿勢にも表れているのです。