2010年9月16日(木)世の終わりが来る前に(ルカ21:5-19)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

この世界に終わりがある、というのはキリスト教にとって大切な教えです。それを終末論と呼んでいますが、すべての歴史はこの終末に向かって進んでいるのです。
もっとも「世の終わり」とか「終末」という言葉は、消極的で否定的なイメージの言葉であることは否めません。普通に考えて「世の終わりが来ることを待ち望む」という人はいません。世の終わりが来て、そのあとに到来する希望に満ちた世界の完成がなければ、終末論はただの滅亡論に終わってしまいます。
当然、キリスト教の終末論は単なる世界と宇宙の滅亡を語るだけではではありません。むしろキリスト教の終末論は新しい秩序の完成であって、そこに至る過程に世の終わりという通らなければならない道があるのです。
その世の終わりを迎えるにあたっての教えが、きょう取り上げようとしている聖書の箇所です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 21章5節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

今お読みした箇所はエルサレムの神殿に関するイエス・キリストの発言に端を発した一連の教えです。
イエス・キリストはエルサレム神殿の建物の偉大さに目を奪われている人々に対して、この神殿の滅亡を預言されました。「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」というのですから、その破壊ぶりは徹底しています。

この言葉を耳にした人々はすかさず、「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と尋ねました。

この質問に対する直接の答えは、来週取り上げようとしている個所でイエス・キリストがこうお答えになっています。

「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」

この言葉はのちの歴史から明らかなように、ユダヤとローマの戦争によって神殿が破壊されてしまう時のことをおっしゃっているように思われます。つまり、イエス・キリストがおっしゃった神殿の滅亡預言は、必ずしもこの世の終わりの預言というわけではありませんでした。もちろん、神殿が滅ぼされるというのは、外見的に、見ればローマ軍の力によって破壊されるのですが、内面的に言えば、救い主イエス・キリストの到来によって神殿の存在意義が失われてしまったからです。そういう意味では神殿の崩壊は新しい秩序の完成の始まりですから、終末の時の一部であるということができるかもしれません。

しかし、イエス・キリストに質問をした人たちの思いの中では、神殿の滅亡と世の終わりとは密接に結びついていたものと思われます。彼らは単にエルサレムの神殿がイエス・キリストの預言どおりになる日について尋ねたというばかりではなく、その関心の中心は、世の終わりの実現の日についてです。ですから、イエス・キリストは誤解を与えないように慎重に言葉を選びながらお答えになっています。

イエス・キリストがおっしゃりたいことの中心は、終末の前に現れる様々なしるしそのものについてではありません。むしろ、それがどんなしるしであれ「惑わされないように気をつけなさい」というところに大切なポイントがあります。
世の終わりという出来事は、事柄の大きさからいって、興味と関心がそこに注がれるのは当然であるかもしれません。しかし、好奇心に満ちた様々な詮索に心を奪われてしまえば、落ち着いた信仰生活をおくることが難しくなってしまいます。
イエス・キリストは「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」とおっしゃいます。様々なしるしは、神でさえも予想できないような異常な出来事では決してありません。すべてが神のご支配のもとで起こっているのですから、努めて落ち着いた生活を送るべきなのです。いえ、すべてが慈愛に満ちた神の御手の中にあることを信じている者だけが、終末に先だって起こる様々な災難に遭遇するときにも平安を保つことができるのです。

イエス・キリストは様々な前兆について語ったあとで、クリスチャンだけが味わう苦しみについても述べています。

「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。」

この言葉だけを耳にすれば、とても不安な気持ちになるかもしれません。果たして迫害に耐え抜いて信仰を守ることができるかどうか、誰も自信をもって答えることなどできないでしょう。

しかし、イエス・キリストはおっしゃいます。

「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」

まず第一に、主が迫害という機会をとらえて、証しの時としてくださるということです。思いもかけない場所で、福音の証しをするチャンスが与えらる時が来るのです。
第二に、主が与えてくださるチャンスなのですから、語るべき言葉も主ご自身が備えてくださるということです。ですから、迫害の時を恐れて、何をどう弁明しようかと今から心を悩ます必要はないのです。

クリスチャンに対する敵対心は家族や親族や友人にも起こる、とイエス・キリストはおっしゃいます。けれども、そうおっしゃると同時に「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と約束してくださいます。

終末の時を待ち望みつつ、今を生きる上で大切なことは、神の恵みと慈しみに信頼することです。神は救いを実現するためにイエス・キリストをお遣わしになったのです。神を信頼して忍耐することこそ、終末のしるしを知って右往左往するよりも大切なことなのです。