2010年10月21日(木)新しい契約の宴(ルカ22:14-23)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

わたしが初めて聖餐式が執り行われるのを見たのは、教会に行き始めて二週間ぐらいたったイースターのときのことでした。その前の日曜日に、来週は聖餐式が執り行われるというアナウンスがあったので、とても楽しみに礼拝に行きました。ところが、その聖餐式には洗礼を受けたクリスチャンしかあずかることができないことを知って、少しがっかりしました。しかし、また聖餐式が厳粛に執り行われるのを見て、自分も洗礼を早く受けたいという思いになったのも確かです。
きょう取り上げようとしている聖書の個所は、この聖餐式の制定にかかるわる記事です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 23章14節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

ルカによる福音書によれば、イエス・キリストが弟子たちと最後の食事を共にされたのは、ユダヤ人たちの過越の祭りの食事でした。ニサンの月の14日の午後から日没までの間に、そのために用意された小羊が祭司によって屠られて、その日の夜、すなわち日没とともに日付が変わったニサンの月の15日に各々の家庭で過越の祭りの食事が始まります。

先週学んだ通り、イエス・キリストはその食事のために予め決めた場所に食事の用意をさせておきました。この最後の晩餐にあずかったのは、イエス・キリストと十二人の弟子たちです。そこには裏切り者のユダも同席していました。ルカによる福音書は同席した彼らを「使徒」と公的な名称で呼んでいます。
イエス・キリストと使徒たちは「食事の席に着いた」とありますが、ここでは「椅子に座った」のではなく、当時の宴会の作法にならって、寝そべるように横たわったのでした。

さて、イエス・キリストはこの過越の食事を、過越の食事として最後までとられたのではありませんでした。食事の時に、この食事に特別な意味づけをされたのです。

イエス・キリストは弟子たちに「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と宣言されます。「この過越の食事」という「この」というのは、今目の前に用意されている食事を食べないということではないでしょう。そうではなく、古い時代の過越の食事はここでその役目を終えて、神の国の完成の時に、救済の完成を祝う新しい祭りの食事を、神の民と共にしたいという約束がここで述べられているのです。
過越の祭りは神の民であるイスラエル民族が奴隷の地、エジプトの家から救いだされた、民族の救済を祝うお祭りでした。しかし、イエス・キリストが神の国の完成の時に共にしようとしている宴会の食事は、すべての神の民との食事です。イエス・キリストはこの神の国での宴会の席を用意して、わたしたちを迎えてくださるのです。

ところで、ルカによる福音書はマタイやマルコ福音書と違って、杯、パン、杯という順番で食事が進んでいきます。わたしたちによく知られている聖餐式では、マタイやマルコ福音書の記事やコリントの信徒への手紙一の11章23節以下の記述に従って、パンと杯の順番で式を執り行います。

もともとユダヤ人たちの過越の食事では杯が四回登場しますから、ルカによる福音書に描かれる最初の杯は、その四回のうちのどれかを描いたものだと考えられます。ただし、その最初の杯について、イエス・キリストはその杯を回し飲みするようにと勧めます。杯を共有するようにとの勧めは、弟子たちの一致や団結を表す行為と考えられます。ユダヤ人の過越の食事では杯を回し飲みすることはありませんでしたから、そこにもイエス・キリストは新しい意味づけをされたのでしょう。

さて、その次のパンと杯については、今日教会で持たれている聖餐式はまさにそこから生まれたのです。

イエス・キリストはそのパンを裂いて使徒たちに与え、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」と、その裂かれたパンの意味を説明されました。
それはこのあと十字架の上でご自身をささげられるイエス・キリストの体をパンにたとえ、その十字架でささげられるイエス・キリストの体は「わたしたちのために与えられる体」であると、その意味が説明されるのです。

後に書かれた新約聖書の手紙の中には、キリストがわたしたちの罪のためにご自分をささげられた、と繰り返し教えられます。たとえば、ガラテヤの信徒への手紙1章4節には「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と記されています。

キリストがご自身をささげられたのは、ほかでもないわたしの罪のためです。そう信じる者がこの聖餐に招かれているのです。

しかも、イエス・キリストは「わたしの記念としてこのように行いなさい」とお命じになっています。繰り返し行われる聖餐式を通して、わたしたちはご自身をささげてくださったキリストの救いの恵みを思い起こすようにと招かれているのです。

それから、食事の後で杯をとって、同じようにこの杯にの意味を説明されました。

「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

かつてモーセはシナイ山で主なる神との契約を結ぶ時に、動物の犠牲の血をとって「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と言いました(出エジプト24:8)。過越の祭りの食事は、かつて神が果たしてくださった救いの御業とそのあとシナイ山で結ばれたこの契約とを思い起こす機会でした。しかし、イエス・キリストは十字架の上で貴い血潮を流され、新しい契約の時代を始めてくださったのです。そこにはユダヤ人も異邦人の区別もありません。キリストを信じるすべての人に等しく与えられる救いが実現されたのです。