2010年11月4日(木)主イエスの執り成しの祈り(ルカ22:31-34)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

自分一人で生きていけるという人は、現実にはほとんど一人もいません。誰かの助けを得て、初めて生きていくうえで必要なものを満たすことができるものです。しかし、現代社会では、生きていくうえで必要なもののほとんどは、お金によって買いそろえることができるので、自分の力で得た自分のお金が自分を支えていると勘違いしてしまいがちです。お金で買い取ったサービスの背後に、どれだけのたくさんの人たちの労力があるのか、そこまでなかなか思いが至らないのです。

同じように信仰の生活もまた、誰一人として自分の力だけで信仰生活を全うすることはできません。ただ、信仰の世界では、とかく個人主義の風潮が強いために、信仰を全うするのも、途中で投げ出すのも、ひたすらそのひと個人の信仰心の篤さにかかっていると思われてしまいがちなのです。しかし、人間の信仰心の篤さほど当てにならないものはありません。
きょう取り上げようとしている個所では、私たちがどれほど弱い存在であるのか、そして祈りによる支え合いが、どれほど大切であるのか、そのことを教えているように思います。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 22章31節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

今、お読みした個所は、イエス・キリストが弟子たちと共にした最後の晩餐での一場面です。その直前の場面で、イエス・キリストは弟子たちにこうおっしゃっています。

「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」

この言葉を耳にした弟子たちは、どれほど気持ちが高まったことでしょう。なにしろ、やがて完成しようとしている神の国で、イスラエルの十二の部族を治めることになるという約束を手にしたのですから。

しかし、その直後にとても厳しい言葉を弟子のシモン・ペトロに投げかけます。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」

なんと人の心を震撼させる言葉でしょうか。サタンの願いが神に聞き入れられたとは、考えただけでも恐ろしい話です。しかも、ペトロの信仰をふるいにかけようとするサタンの願いです。
誰もが思うことでしょう。神がサタンの願いを聞き入れるとは、いったいどういうことだろうかと。しかし、また冷静になって考えてみれば、サタンでさえ神の許しがなければ、人間に指一本触れることはできないのです。

信仰がふるわれるときに味わう苦しみは、誰からも理解されない孤独な苦しみであると思い込み、絶望的になりがちです。しかし、その苦しみは、神ご自身でさえもあずかり知らない苦しみでは決してありません。しかも、意地悪な神ではなく、愛に徹した神がそこにかかわっていてくださるのですから、この悪意に満ちたサタンの願いが人間にとって絶望に終わるということは決してないのです。試練の背後で力を握っているのはサタンではありません。愛に満ちた神が、それを許可することもやめさせることもできる力を持っていらっしゃるのです。試練の中で神の愛を疑わないことが、試練を乗り越える一番の道です。

しかし、そうはいっても、目の前の試練に耐えきれなくなってしまうのが人間の弱さです。そうであればこそ、イエス・キリストは言葉をつづけておっしゃいます。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」

信仰がふるわれるような試練に遭うときに、わたしたちの知らないところでイエス・キリストご自身が祈っていてくださいます。このイエス・キリストの言葉は決してシモン・ペトロにだけ語られた特殊な言葉ではないでしょう。今もイエス・キリストはわたしたちの信仰を支えて祈ってくださっています。イエス・キリストが祈っていてくださるからこそ、神の愛からそれてしまう時にも、信仰に立ち返る道を失うことがないのです。

しかも、イエス・キリストはペトロに対して、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ともおっしゃいました。

イエス・キリストはペトロに対して、立ち直ったときには、自分がどこでどう躓いたのかを自己批判したり反省するようにとはおっしゃいませんでした。ペトロはそう言われなくても、きっと深い反省を自分でしたことでしょう。しかし、それよりも大切なことは、信仰者は誰しも弱い存在であることを知って、力づけ励ますことの大切さを学ぶことです。特に後に教会の指導者として活躍するシモン・ペトロにそのことを学んでほしかったのでしょう。

けれども、このときのペトロには、イエス・キリストの言葉は残念ながら心に届きませんでした。愛である神の深い御配慮にも、また、背後で祈ってくださるイエス・キリストの執り成しにも、目を開こうとしませんでした。それどころか、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と、自分の力を過信した言葉を口にしているのです。

確かにペトロが心からそう思っていたことは疑いようもありません。実際、その時には死ぬ覚悟も出来ていたのでしょう。けれども、人間の思いや決心といったものがどれほど移ろいやすくもろいものであるのか、ペトロは気がついていなかったのです。もし、気づいていれば、必死になって神に助けを祈り求めたことでしょう。

「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」というイエス・キリストの警告の言葉も、ついぞペトロの心の耳には届かなかったのです。

この後、実際にことが起こったときの次第が福音書に記されています。イエスの言葉の通り、イエスのことを知らないと言ってしまったペトロは、「外に出て、激しく泣いた」とあります。

こういうのを、「あとの祭り」というのかもしれません。しかし、イエス・キリストは「あとの祭り」などどは決しておっしゃいません。イエス・キリストが心から願っていらっしゃることは、ペトロが信仰を失わずに立ち直ること、そして、自分と同じ弱さを誰もが持っていることを知って、その人のために祈り、励ます人となることです。その同じことをイエス・キリストはわたしたちが躓き倒れるときにも願っていらっしゃるのです。