2010年12月23日(木)何もお答えにならないキリスト(ルカ23:6-12)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

人間の心はどこまで残忍になれるのだろうか、と世の中に起こる事件を見ていて、そう思うことがあります。しかし、その残忍な人も、生まれた時から残忍ではなかったのだろうと思います。ふとしたきっかけで、残忍さが芽を出して、それを抑えることができなくなってしまう人間の弱さと罪深さを思います。
きょう取り上げる場面に登場するヘロデもまた、残忍な性格を表し始めます。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 23章6節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

先週はピラトのもとで裁判を受けるイエス・キリストの姿を学びました。ピラトはイエス・キリストに何の罪も見いだせないと言いながらも、しかし、無罪の判決を下すことにためらいも感じていました。というのも、訴える者たちの強い態度にひるむところがあったからです。

もちろん、ピラトにとってはユダヤの指導者など恐れるにも足りない者たちだったでしょう。実際、ピラトは着任早々、ローマ皇帝の像がついている旗をエルサレムの神殿に持ちこんで、ユダヤ人たちの物議をかもしました。また、この福音書の13章にも出てきたとおり、ガリラヤの人たちを神殿で虐殺するひどい事件も起こしました。恐れを知らないピラトでしたが、今度の事件は、扱い方によっては地位を追われるような危険がありました。
ローマ皇帝に反逆する者を許したとして、ユダヤ人たちが騒ぎ立てでもしたら、ピラトはたちまちその地位を追われてしまうことでしょう。実際、ヨハネによる福音書には、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と騒ぎ立てるユダヤ人たちの言葉が記されています。

しかし、また、ユダヤ人たちの要求を飲んで、無罪の人間をろくに調べもしないで処刑したとなれば、これもまた、ピラトにとっては汚点ともなりかねません。

ところがちょうどうまいことに、ピラトはイエスがガリラヤの住民であることを知ります。しかも、そのガリラヤの領主は、これまたタイミング良くエルサレムに滞在しているではありませんか。
ピラトはやっかいな事件をさっそくヘロデに押しつけます。

さて、きょうの個所は、そのガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのもとへ送られてきたイエス・キリストと、ヘロデが対面する場面です。
このヘロデ・アンティパスという人物は、イエス・キリストが誕生した当時のユダヤの王であったヘロデ大王の子供の一人で、ヘロデ大王の死後、父親から領地の一部を受けついでガリラヤとペレアの領主となった人物です。福音書の中にも記されているとおり、異母兄弟フィリポの妻ヘロディアを奪った人物です。そして、その道外れた行動を洗礼者ヨハネから非難されて、ヨハネを投獄した張本人です。しかも、自分の誕生日の余興に舞を舞った娘サロメの要求に応えて、投獄したヨハネの首をはねさせた張本人でもあります。

それだけ非道で残忍なヘロデ・アンティパスのことですから、何も恐れるものがないのかと思うと、案外小心者の一面をのぞかせることもあります。マルコによる福音書はこのヘロデのことをこう記しています。

ヘロデは「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」(マルコ6:20)

そうであればこそ、イエス・キリストのことをうわさに聞いたとき、「戸惑った」とあります。なぜなら、ヨハネが死者の中から生き返ったのだと思ったからです(ルカ9:7)。「そして、イエスに会ってみたいと思った」とルカによる福音書はヘロデの心境を報告しています(ルカ9:9)。

そんな経緯がありましたから、ピラトのもとから送られてきたイエスと対面するのは、ヘロデにとっては怖くもあり、また、興味をそそられるものがあったことでしょう。しかし、この時には自分が殺したヨハネの生き返りかもしれないという怖さよりも、イエスの行う奇跡を見たいと思う好奇心の方がヘロデの心に強く働きかけていました。ヘロデは「イエスを見ると、非常に喜んだ」(ルカ23:8)とあります。しかし、その喜びは救い主と出会う喜びではありません。

ルカによる福音書には、救い主としてイエス・キリストを迎える喜びについて何度か記されてきました。
イエス・キリストがお生まれになったとき、天の使いは羊飼いたちに「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言いました(ルカ2:10)。その喜びの知らせに応えて、羊飼いたちは、「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と急いで出て行ったのでした(ルカ2:15-16)
エリコの町でイエスと出会ったザアカイも木の上から急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた、とあります(ルカ19:6)。

しかし、ヘロデがイエスと会って喜んだのは、救い主と出会った喜びでは決してありませんでした。

イエス・キリストもまたヘロデの関心がどこにあるのかを見抜かれていたのでしょう。好奇心から次々に寄せられるヘロデの質問には一言もお答えにならずに沈黙を貫かれます。

そうなると、ヘロデの関心は一気に覚めてしまいます。覚めてしまうばかりか、イエス・キリストへの態度は軽蔑と憎しみに変わります。兵士と一緒になってイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返してしまいます。

皮肉なことに、今までは敵対関係にあったこのときをきっかけに、ヘロデとピラトが急接近し始めます。
この二人は、噂のキリストは自分たちの地位を脅かすかもしれない人物と思い込んでいたこともあったかもしれません。しかし、とにかく今は、大した男ではないという共通した軽蔑の思いが二人を結びつけたのでしょう。

しかし、彼らの安心感と友情は、神の御前には何の意味も価値もないものです。
同じ事はわたしたちにも言えるかもしれません。神を恐れない私たちがいくら神を軽蔑し、安心感を共有しても、それはわたしたちの本当の救いとはならないのです。
イエス・キリストをどう受け止めるのか、今も一人一人に神から問われているのではないでしょうか。