2011年2月24日(木)復活の主との交わり(ルカ24:28-35)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「こどもさんびか」の中に、「イエスさまいるって、ほんとかな」という歌があります。その3節の歌詞は「イエスさまいるってほんとだね。みことば聞いて、パンをさく みんなの中にイエスさまは、いつもいてくださる」と歌います。
 この歌を聴くたびに、きょう取り上げようとしている聖書の個所を思い浮かべます。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 24章28節〜35節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 きょうの聖書の個所は先週の話の続きです。失意のうちにエマオ村に向かう二人の弟子に、復活したキリストがその姿を現します。しかし、キリストの十字架の死が動かしがたい事実であることを知ってるこの二人には、復活のキリストが目の前にいても、それをイエス・キリストであると認めることはできませんでした。心の目が閉ざされていたからです。体験した失望の大きさから考えて、それは無理もないことでした。

 では、どのようにしてその目が開かれ、復活のキリストと出会うことができるようになったのでしょうか。まだ何も気が付いていないこの二人の弟子が、この先どうなるのか、わくわくするような話の展開です。

 二人の弟子は目指すエマオ村に近づきました。日も傾きかけていたので、復活のキリストであるとは知らないこの旅人に、一緒に泊まるようにとすすめます。旅人をもてなすことは当時の人々の習慣でしたから、深い考えもなく誘ったのでしょう。何よりも、何も知らないと見えるこの旅人に、もっと自分たちの抱いていた期待や味わった失望の大きさを聴いてもらいたかったのかもしれません。

 しかし、共にした食事の席で、すべてが変わりました。

 この旅人がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったそのとき、この人こそ、復活のイエス・キリストであると悟ったのでした。

 確かに、この旅人のパンを裂く振舞いは、一緒に過ごした時のイエス・キリストにそっくりでした。特に最後の晩餐のときに、弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えたイエス・キリストを思い起こさせるものがありました。
 それもそのはずです。この旅人こそ復活のイエス・キリストだったからです。

 しかし、なぜこの時になって初めて、今まで自分たちと会話を交わしてきたこの旅人が、復活したイエス・キリストであると理解できたのでしょうか。どうして、それまでの会話や仕草でそれと悟ることができなかったのでしょうか。

 この疑問に答えることはできませんが、しかし、復活のキリストを記念して、パンを裂くための集会が週の初めの日に、キリスト教会で持たれるようになったのは、明らかにこの出来事と関係していると思われます。

 なるほど、イエス・キリストは最後の晩餐の席上で、自分の記念として、自分がしたのと同じようにパンを裂き、ぶどう酒の入った杯から飲むように弟子たちにお命じになりました。しかし、いつ、それをするようにという具体的な指示を与えたわけではありません。過越しの祭りのときに、年に一度だけしなさい、とおっしゃったわけでも、毎週安息日にそうしなさい、とおっしゃったわけでもありません。
 しかし、使徒言行録20章7節にあるように、キリスト教会では、週の初めの日にパンを裂くための集まりを持つようになったのでした。それはほかでもなく、復活のイエス・キリストが、その様に弟子たちの前で、復活したその日に、パンを裂いて分け与えたからでしょう。

 言い換えれば、キリスト教会で持たれる聖餐式は復活のキリストを記念しているともいえるのです。そして、あの二人の弟子たちがパンを裂くキリストの様子を見て目が開かれ、復活のキリストに気がついたように、そのように聖餐式に与るたびに、今も生きておられる復活の主イエス・キリストを確信することができるのです。

 復活の事実を証明することは誰にもできませんが、礼拝の中で、聖餐式を通してこそ、復活のキリストをいよいよ身近に感じることができるのです。

 それと同時に、旅人が解き明かす聖書の言葉に、この二人は心が燃える思いがした、と語っています。失望のうちにあったこの弟子たちが、再び希望にあふれ、燃えるような心を持つには、イエス・キリストが解き明かす聖書の言葉が必要だったのです。

 言い換えれば、イエス・キリストが解き明かされた通りの聖書の言葉に耳を傾けるときにこそ、復活のキリストを自分のものとすることができるということでしょう。

 ところで、せっかく心の目が開かれて、復活のキリストと出会えた途端に、肝心のキリストの姿は見えなくなってしまいます。旅人の姿が肉の目に映っていた時には、復活のキリストをそこに見出すことはできませんでした。しかし、復活のキリストの姿を見出した時に、今度は肉の目に映る姿は見えなくなってしまったというのです。

 確かに後にパウロが語っているように、キリストが復活なさったことは、目撃者の多さによって、動かしがたい事実とされています。パウロはコリントの教会の信徒たちにこう言っています。

 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」(1コリント15:3-6)

 けれども今はもう目で確かめることのできないキリストの復活は、過去の昔話になってしまったのでは決してありません。
 礼拝で解き明かされる聖書の御言葉を通して、また聖餐式の交わりによって、今もなお復活のキリストはわたしたちのうちにいてくださるのです。その意味で、日曜日ごとに礼拝に集まるわたしたちは、復活の主イエス・キリストの証し人なのです。