2011年3月24日(木)ローマ訪問の願い(ローマ1:8-15)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 初めて日本にキリスト教を伝えた人々のことを思うと、ほんとうに頭の下がる思いがいたします。16世紀半ばのヨーロッパにとって、日本はほとんど知られていない国でした。文字通り東の果てにあるこの国の人々に福音を伝えようと、幾人もの宣教師たちがやってきたこともそうですが、その宣教師たちを送り出した教会にも頭がさがります。
 きょうこれから取り上げようとしている聖書の個所で、パウロは「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」と述べています。この福音を伝えるという「果たすべき責任」は今もなおあらゆるクリスチャンが負っているものであると思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 1章8節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、”霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

 きょうの個所は、手紙本文の冒頭部分です。パウロの手紙はどれも、差出人の名前と宛先を記したあとで、短い祝福の言葉を述べてから、ほとんど例外なく、神への感謝の言葉が述べられます。その感謝の言葉も、ただ通りいっぺんの言葉ではありません。当然ですが、手紙ごとに感謝の内容が異なっています。この感謝を述べる部分を読むと、パウロがその手紙の宛先となる教会に対して、どれほどの関心を日頃からいだいているのか、ということがわかります。

 パウロにとってローマの教会は、まだ訪ねたことがない教会でした。しかし、信徒たちの幾人かとは直接の面識がありましたから、教会の様子は個人的な伝を通してもパウロの耳に入ってきていたことでしょう。けれども、パウロがローマの教会に対していだいていた関心は単なる個人的な関心からというものではありませんでした。

 パウロがこの教会について神に感謝していることは、ローマの教会の人々の信仰が全世界に言い伝えられているから、という理由によるものでした。
 「全世界に」という言い方は少し大げさすぎるようにも思えますが、しかし、地中海沿岸全域を統治したローマ帝国の首都にあった教会のことですから、その評判がまたたくまにローマ帝国内全域に広まったとしても不思議ではありません。
 なによりも、ローマ帝国の中心地、ローマ皇帝のお膝元にある教会ですから、その重要性は言うまでもありません。当時の教会の規模がどれくらいであったのかはわかりませんが、パウロが感謝していることは、教会の規模の大きさのことではなく、この教会に集う人々の信仰についての評判です。

 パウロがこの手紙を書いているときの皇帝は、あの悪名高いネロの時代でした。といっても、皇帝ネロによるキリスト教の迫害が始まるのはもう少しあとの時代です。しかし、その迫害にも耐えるほどの信仰は、その時になって初めて作られるのではありません。パウロが耳にしたとおり、ローマの教会の信徒たちの信仰はすでに全世界に言い伝えられるほどのものがあったのです。
 そのことをまず神に感謝することから、パウロは手紙を書き始めています。

 パウロはこのような信仰を持つローマの教会について神に感謝を捧げているのですが、パウロはこの教会のことを祈りの度毎に思い起こしては口に上げるほどに、この教会に対して深い関心をいだいています。
 パウロには実際にローマの教会を訪ねたいという願いがありました。ただ、今まではそう願いながらも、それを実現する機会が与えられませんでした。パウロはわざわざ神を証人として、ローマの教会に対する自分の関心の高さとローマの教会を訪ねたいという願いを述べています。

 では、ローマの教会を訪ねて、パウロは何をしようとしているのでしょうか。なるほど、この手紙のおしまいの方を読むと、パウロにはスペインに行く計画がありました(15:24)。ローマ訪問はその途上でなされるものですから、ローマを訪れることは、それ自体が主要な目的ではないように思われます。
 しかし、14節と15節で述べられるパウロの強い意志を読むと、ローマ訪問はけっしてついでの訪問ではなさそうです。

 「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」(1:14-15)

 しかし、すでに見たとおり、パウロはこの教会の信仰が全世界にあまねく言い広められるほどの信仰であることを述べています。そのローマの教会の人々に対して「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」というのは少し奇妙な感じがします。

 それは、ローマの信徒たちに改めて福音を伝えるという意味ではなく、ローマにいるあなたがたのところでもキリストを信じていない人々に福音を告げ知らせたい、という意味なのかもしれません。

 しかし、こうも考えることができます。

 パウロにとってこれから向かうスペインでの伝道活動を円滑に進めるためには、ローマの教会の理解と支援を欠かすことができません。それには、何よりもパウロの福音についての理解をローマの教会の人々にも十分に知ってもらう必要があります。

 特に懸念されることは、ローマの教会の信徒たちはユダヤ人と異邦人とからなる教会でしたから、ユダヤ主義の教えがローマの教会に逆流してしまう危険がないとはいえません。あるいは、ユダヤ人たちの間で流れているパウロに対しての悪いうわさが、ローマのユダヤ人社会にも広まり、ひいてはそれがローマの教会を揺さぶるということにもなりかねません。
 確かにこの手紙が記される何年か前、クラウディウス皇帝の時代にユダヤ人たちがローマから追放されることになりました(使徒言行録18:2)。その原因はキリスト教とユダヤ教との対立であったといわれています。しかし、この手紙が書かれたときには、この勅令は解かれ、再びユダヤ人たちがローマに戻ってきていました。ですから、ローマの教会の人々が福音についてのしっかりした理解をもっていなければ、再び混乱に巻き込まれてしまう危険があったのです。

 パウロにとって、ローマの教会を訪ねることは、決してついでのことではありません。教会が一致して福音を弁明し伝えることができるようにと、心から願っていたのです。