2011年4月28日(木)律法を持つ意味(ローマ2:17-29)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしたち日本人にとって、「ユダヤ人」という言葉は、ほとんど馴染みのない言葉かもしれません。たいていの日本人が「ユダヤ人」という言葉を時初めて耳にするのは、ナチスによって虐殺されたユダヤ人のことか、あるいは、シェイクスピアの作品『ベニスの商人』に登場する金貸しシャイロックがユダヤ人であることとか、あるいは日本人にとっても馴染みのある著名な人物、例えば相対性理論のアインシュタインがユダヤ人であったことなどから、ユダヤ人という言葉をはじめて知るのではないかと思います。
 もうずいぶん昔にイザヤ・ベンダサンという人物が、実はこの人は山本書店の店主、山本七平氏本人であると言われていますが、その人が著した『日本人とユダヤ人』という本はベストセラーになりました。しかし、その後、日本人とユダヤ人が比較される書物を目にしたことがありません。
 近年になって、杉原千畝という人の名前が、テレビで取り上げられるようになって、再び日本人とユダヤ人の深い関係を知るようになった日本人も多いのではないかと思います。この杉原千畝という人は、当時リトアニアの日本領事館代理でありましたが、ナチスの迫害をのがれて難民となったユダヤ人に、外務省の命令に反して大量の日本通過のビザを発給して、彼らの命を救った人物です。
 しかし、それでもユダヤ人という言葉は日本人にはあまりなじみがないように思います。
 きょう取り上げる聖書の個所にはその「ユダヤ人」をめぐる議論が出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 2章17節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 パウロは今まで人間の罪の現実とそれに対する神の裁きの問題を語ってきました。しかし、このようなパウロの問題意識も、一部のユダヤ人たちにとっては他人事のようにしか受け止められませんでした。なぜなら、自分たちは神から選ばれた特別な民であるという意識が強かったからです。どんなに人類の罪の悲惨さとそれに対する神の怒りをパウロが説こうとも、「我々ユダヤ人には律法と割礼があるので大丈夫」という安心感があったのです。
 当然パウロもそうしたユダヤ人の思いを意識しながら筆を進めてきました。パウロ自身も、かつてはユダヤ人の中のユダヤ人を自負するほどの熱心なユダヤ教徒でしたから(フィリピ3:5-6)、当然予想されるユダヤ人たちの反応を誰よりも理解していました。

 きょうの個所でパウロは初めて、ユダヤ人を名乗っている「あなた」に対して直接語りかけて、2章1節で「すべて人を裁く者よ」と語りかけてきた相手が、他ならないユダヤ人を名乗る「あなた」であることを明らかにします。
 もっとも、パウロはまずはユダヤ人であることの意味を丁寧に記しています。つまり、ユダヤ人であるということは、「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえて」いるということにほかなりません。パウロの記しているとおり、ユダヤ人にはモーセを通して特別に律法が与えられ、神の御心が教えられてきました。律法には何をなすべきであるのか、はっきりと記されていますから、それを読めば、なすべきことはおのずと分かるというものでした。
 また、そうであればこそ、まことの神を知らない異邦人に対して自分たちこそ「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負」することができたのです。

 なるほど、ここだけを読むならば、ユダヤ人たちもパウロの言うことにまったくの同感を覚えたはずです。
 しかし、パウロはここから一転してユダヤ人の罪を暴きだします。

 パウロは「神の御心を知っている」ということと「神の御心を行っている」ということの違いを指摘します。

 「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。」

 ここでパウロが語っているユダヤ人の「盗み」や「姦淫」の罪は、心の中の問題という、より厳しい基準を持ちだしているのではないでしょう。それは、今日のキリスト教と言われる国々を見ても明らかな通り、現実に窃盗や姦淫の罪を犯すクリスチャンがいる事実を隠すことはできません。その現実を脇へ置いて、真の神を知らない人々の行いをあたかも野蛮人の行いのように扱うことは許されないのです。まして、イエス・キリストが教えてくださったように、現実の行為ばかりか、その現実の行為を生み出す汚れた心が問題とされるならば、なおいっそうのこと神の裁きから逃れることはできないのです。

 むしろ、ユダヤ人たちには、神の御心を知っていながら、それを行おうとしない責任が、いっそう厳しく問われているのです。

 パウロが「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」と述べている言葉には、特別に耳を傾ける必要があります。

 神の律法はそれを手にしているというだけでは意味がありません。そこに記された神の御心を行ってこそ意味があるのです。律法を守らないのであれば、割礼を受けていても割礼がない異邦人となんら変わるところがないからです。

 パウロは一見、「その逆もまた真理である」と言っているようにも聞こえます。つまり、神の御心を知らない異邦人でも、律法要求を完全に満たすことができれば、その人こそまことのユダヤ人であると。

 確かに論理的にはそうなのですが、パウロが言いたいことは、そうではありません。パウロがここで言いたいことは、異邦人もユダヤ人も等しく神の御心を全うすることができていないという罪の現実なのです。
 確かにパウロの言う通り「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」。けれども、問題はどのようにして”霊”によって心に割礼が施されるのか、ということです。それこそが、福音の核心にかかわる問題で、パウロはそのことをこれから展開しようとしているのです。