2011年5月12日(木)すべての人は罪人(ローマ3:9-20)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書には「罪人」(ツミビト)という言葉が出てきます。「ザイニン」とも読みますが、キリスト教の用語では「ツミビト」と読むのが習わしです。しかし、「あなたは罪人だ」と言われて、気分の良い言葉では決してありません。この言葉が宗教的な意味合いで使われているといくら説明されても、自分が罪人であることを素直に認めるのには抵抗があります。

 今学んでいるローマの信徒への手紙の中で、「すべての人間は罪人である」という真理は、パウロが宣べ伝えている福音の大前提となっています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 3章9節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。


 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
 善を行う者はいない。ただの一人もいない。
 彼らののどは開いた墓のようであり、
 彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
 口は、呪いと苦味で満ち、
 足は血を流すのに速く、
 その道には破壊と悲惨がある。
 彼らは平和の道を知らない。
 彼らの目には神への畏れがない。」
 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。


 パウロは1章18節以来、人間の罪の現実と悲惨さを明らかにしようと筆を進めてきました。というのも、パウロが恥としないという「福音」は「救いをもたらす神の力」である、とパウロが1章16節で言いきっているからです。そこで言われているとおり、福音は人間の「救い」とかかわる重大な内容を含んでいます。その場合、何からのどんな救いであるのか、ということが当然明らかにされなければなりません。

 そこで、パウロは、救いの必要性を明らかにするために、人間の罪の現実と悲惨さを余すところなく描くことからまず手紙を書き起こしました。

 しかし、パウロが描く人間の罪の現実と悲惨さに対して、誰が一番の異議を唱えるかといえば、他ならないユダヤ人自身であることをパウロは感じていました。ですから、前回取り上げたとおり、パウロはユダヤ人からの反論も視野に入れながら、筆を進めているのです。前回取り上げた個所では、いったん議論がわき道に入りましたが、きょうの個所で再び本題である人間の罪の現実と悲惨さに話が戻ります。

 パウロはここで、ふたたび読者に問いかけます。

 「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。」

 パウロの答えは明快です。

 「全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」

 パウロは特に異議をとなえるであろうユダヤ人を念頭に置きながら、旧約聖書の言葉を引用して、すべての人が罪人であることを論証します。そこに引用されているのは特定の聖書個所一つだけではなく、いくつかの聖書の言葉を組み合わせた引用です。

 出だしの部分は詩編14編(53編)からの自由な引用ですが、詩編5編10節、140編4節、イザヤ書59章7節8節、そして、詩編36章2節と、次々に聖書の言葉をつなぎ合わせて、人間の罪の現実と悲惨さを明らかにしていきます。

 パウロの指摘によれば、正しい人が一人もいないという現実が、破壊と悲惨をもたらし、平和を知らない道へ通じていくのです。破壊と悲惨がまずあるのではなく、正しい人が一人もいない、という罪の事実が、破壊と悲惨をもたらしているのです。そして、罪の事実をもたらしている根本のところに、神への畏れが欠如しているという人間の心の問題があるのです。

 この場合の「神へのおそれ」というのは、単に神を怖がるということではありません。確かに神には罪を罰せずにはおかない恐ろしさがありますが、しかし、ここでいう「おそれ」とは神を崇高な存在として「畏れ敬う」という積極的な意味合いも含まれています。

 実はパウロが引用した詩編14編は、神を畏れ敬うことを知らない愚か者の言葉でこう始まっています。

 「神などいない」

 「神などいない」と思う心には、当然、神を畏れ敬う気持ちなど育つはずもありません。神を畏れない生き方は、結局のところ、自分を最高の存在と考えて、留まるところを知らない生き方です。畏れるものを失った生き方とは、結局、自分以外のすべてを真に敬うことができない世界なのです。そこから生じるものは、「破壊と悲惨」「平和の道を知らない」生き方です。

 しかし、パウロが引用した聖書の言葉を手しているユダヤ人からは、当然反論が出てきます。

 「われわれには神の御心を書き綴った律法があるのだ」と。

 しかし、神の意志を書き綴った神の言葉である律法は、それを完璧に守ってこそ意味のあるものです。もし、守ることができないのであれば、たとえ律法を手にしていたとしても、それを守ることができないという自覚が生じるだけです。

 パウロが言う「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」とは、実行したのに義とされない、という意味ではありません。そもそも神の義を満たすほどには実行することができないのですから、それによって義とされることはないのです。あるのは、ただ、神の義の要求を満たすことができないという自覚だけです。

 ほんとうは人間だけが神の言葉に対して責任をもって応えることができる存在であるはずです。しかし、その責任を果たすことができなくなっているところにこそ根本的な問題があるのです。そして、そう言う意味で、すべての人は罪人なのです。