2011年6月23日(木)罪に死に、キリストに生きる(ローマ6:1-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書には「生と死」についてのさまざまな表現があります。一般的な世界では「生と死」と言えば、肉体の命と死ということが第一のことです。ところが聖書では生身の生きた人間について、「あなたがたは以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソ2:1)と語ります。そうかと思えば、きょう取り上げる個所では、「罪に対して死んだわたしたち」とか「罪の中に生きる」といった表現が出てきて、「生と死」について
どこからどう捉えるのか、という問題をわたしたしに問いかけています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 6章1節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

 前回取り上げた個所では、アダムによって罪が世界に入り、罪によって死がもたらされたように、キリストによって義と命とがもたらされたことを学びました。そのことを述べる際に、パウロは「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と書き記しました。

 この表現をめぐって予想される誤解を先取りして、きょう取り上げた個所で、パウロは問いかけます。

「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」

 なるほど、罪が増したところに、恵みがいっそう満ち溢れるのであれば、罪にとどまれば留まるほど、恵みもいっそう大きくなると言えるかもしれません。

 しかし、パウロが語っている「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」という言葉は、キリストの救いの結果であって、恵みを増すための法則を語っているわけではありません。受けた救いの恵みの大きさによって、わたしたちはどれほど大きな罪が赦されたかを知ったのです。罪の大きさが大きな恵みを引き出すのではありません。

 ですから、パウロは「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という愚かな問いに対して、即座に「決してそうではない」と答えます。

 パウロは先週学んだ個所で、キリストがもたらした義と命について語りました。それはアダムがもたらした罪と死に対立するものです。このキリストと結びついて、死から命へと移された者が、死を報いとして与える罪に留まるということは自己矛盾していることになります。

 パウロはこのことを説明するために、「洗礼」を引き合いに出します。キリストを救い主として受け入れ、キリストの教会の一員とされたときに授けられる洗礼は、当然ローマの教会の人たちにとっても、良く知られていました。その洗礼というのは、洗礼を受ける人がキリストと結び合わされたことを証しするものです。
 パウロは既にキリストが義と命とをもたらしたことを述べました。しかし、そのキリストとわたしたちとの間に何の関りもなければ、キリストの義も命も宙に浮いたままです。わたしたちはキリストが勝ち取ってくださった義と命とを信仰によって受け取ります。そのことは、キリストと結び合わされてキリストの身代わりの死を自分のものとし、復活の命を自分のものとすることにもつながっています。キリストを頭とした教会の一員とされるときに受ける洗礼はそのことを示しているのです。

 すでに洗礼を受けてキリストの教会員とされている者は、キリストと共に葬られ、その死にあずかっているのです。それは死を報酬としてもたらす罪に対して死んだという側面を持っています。罪はキリストと共に死んだ者をもはやその支配のもとに置くことはできません。そればかりか、洗礼を受けてキリストの教会員とされている者は、キリストと共に復活し、再び罪に対してではなく、今度は神に対して生きる者とされるのです。

 もちろん、パウロは別の手紙の中で、復活の命について「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」とも述べています(フィリピ3:12)。確かに救いが完成されるのは終末の時のことです。しかし、そうだからと言って、いまだに罪がわたしたちを支配し続けているということではありませんし、また罪の中にとどまり続ける言い訳となってもいけないのです。

 つまり、キリストの十字架の死が確かなものであるのと同じように、キリストに結ばれた者が罪の支配に対して死んだ者となった、つまり、罪の支配から解放されたということも確かなことなのです。そして、キリストの復活が確かであったのと同じように、キリストにあずかって新しい命が与えられることもまた確かなことなのです。

 そうであればこそ、恵みのもとにあるクリスチャンとしての生き方を、パウロはこう勧めます。

 「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」

 こういう生き方こそが、キリストと結び合わされ、生かされている者に求められているのです。いえ、そのように生きる恵みが与えられているのです。