2011年7月14日(木)罪と律法(ローマ7:7-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「自覚症状」という言葉があります。患者自身が自分の異変を感知できる症状を指して言います。自覚症状がないまま病状が悪化してしまう病気は、発見のタイミングによっては命取りになってしまいます。そう言うことが起こらないように、健康診断を定期的に受けることが奨励されています。

 ところで、罪の自覚症状というのは、罪人である人間に本来あるものなのでしょうか。一般的には良心の呵責によって自分が罪を犯したという自覚が生じると考えられています。パウロ自身もこの手紙の中で、心の中に記された律法の要求があることを良心が証ししていると語っています(ローマ2:15)。しかし、その良心も場合によっては当てにはならないことも、この手紙の中で示されてきました(1:21)。とすると、罪を罪として診断する手掛かりが、良心以外のところになければ、手遅れになってしまいます。そのために与えられたのが文字として書かれた律法です。
 きょうの個所ではこの律法と罪の問題が扱われます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 7章7節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。

 きょうの個所は「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか」という問いで始まります。
 律法と罪との関係は、既にこの手紙の中で何度も取り扱われてきました。たとえばパウロがこの手紙の中で今まで発言してきた律法と罪との関係を並べてみると、次のようになります。

 「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3:20)。「実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません」(4:15)。「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです」(5:13)。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」(5:20)。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」(7:5)

 このように抜粋して並べたものを読んでいると、あたかも律法が罪を生んでいると誤解されかねません。そのような誤解を先取りして、パウロは「律法は罪であろうか」と問い、即座に「決してそうではない」と答えています。律法は罪を指摘して自覚させているのであって、罪を生みだしているのではありません。従って、律法が罪であるという論法は成り立たないのです。それは言ってみれば、健康診断が病気を生みだしているのではないのと同じです。

 ところで、律法が罪を自覚させるものであることを述べるにあたって、今までとは違って、「わたしたち」ではなく「わたし」という言葉をパウロは使っています。なぜパウロがここで個人的な「わたし」を前面に出しているのか、その理由は定かではありません。「わたしたち」という漠然とした一般論ではなく、「わたし」という具体的な体験を語ることで、パウロの主張にリアリティが生じていることは確かです。

 パウロは律法が罪の自覚を生じさせることについて、こう述べています。

 「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」

 ここでもパウロは漠然とした言葉を避けて、具体的に十戒の最後の戒めを引用して「むさぼりの罪」についての自覚を取り上げます。もちろん、パウロが取り上げる例は、十戒のどの戒めでも良かったはずです。ただ、隣人に対する罪の中で、「むさぼりの罪」ほど自覚されにくいものはないでしょう。
 殺人の罪や窃盗の罪は、良心に咎めを感じることがあるので、書かれた律法が与えられる前にも罪の自覚は生じるかもしれません。しかし、むさぼるという思いは、それが心の内にとどまっているのであれ、行為として外面に現れるのであれ、それが罪として自覚されることが少ないものです。なぜなら、正しい意味での幸せの追求と、単なる身勝手な自己実現の追求とは区別がつきにくいからです。むさぼりは、他者の存在を省みないで、自分中心の幸せだけをほしいままに追求することです。しかし、本人にとってはそれが幸福感と結びついているために、罪の自覚が生じにくいのです。

 ところで、続く9節10節は注意が必要です。パウロはそこで「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました」と述べています。これはいったいパウロの生涯のどの時代のことを述べているのでしょうか。パウロは生まれながらにユダヤ人として、律法の薫陶を受けてきた人物です。律法とかかわりなく生きてきた時代など実際にはないはず。このことを理解するためには、次の節でパウロが述べている言葉を見なければなりません。
 パウロは次の節で「命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました」と述べています。この言葉によって「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました」という言葉の意味を理解しなければならないのです。
 つまり、律法には罪人に対してその罪を指摘し、罪を自覚させ、その罪がどのような裁きに値するかを示すという働きがあるにもかかわらず、ユダヤ教徒であったころのパウロにとっては、そのような律法の理解が十分ではなかったのです。むしろ、律法を守ることで命がもたらされると信じていたのです。たしかに、律法の一点一画にいたるまで完璧に守ることができれば、律法は命をもたらすはずのものです。しかし、罪に堕落した人間には、それは実現できないことです。むしろ、守ろうとすればするほど、それを守れない自分の姿が指摘され、どれほど神の怒りに値する自分であるかが示されてしまうのです。そういう罪を指摘し自覚させるという意味での律法をパウロは十分に理解することができなかったということです。そういう意味でパウロはかつては律法とはかかわりなく生きてきたのです。
 しかし、福音を知ったパウロにとっては、律法は単に命をもたらす律法ではなくなっているのです。それどころか、律法を純粋に守ろうとすればするほど、自分が死に値する者であることを指摘されるのです。

 しかし、すでにパウロが述べたように、それは律法自体が罪だからではありません。律法は正しく聖なるものであるからこそ、罪を指摘し、その大きさを測ることができるのです。そして、この律法に真摯に向き合う時に、キリストを通して与えられる救いの恵みの大きさを自覚することができるのです。