2011年9月15日(木)イスラエルのつまづき(ローマ9:30-10:4)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イスラエルの救いの問題をローマの信徒への手紙から何回かに分けて学んでいますが、そのことを学ぶ今日的な意義は何か、と問われると、それに答えるのは中々難しいように思います。ユダヤ人であったパウロが同胞のユダヤ人の救いの問題を考えるのと、現代の異邦人クリスチャンであるわたしたちが、現代のユダヤ人ユダヤ教徒の救いについて考えるのとでは問題意識が違っているからです。
 「ユダヤ人ユダヤ教徒」というくどい言い方をしましたが、現代ではユダヤ教を信じる人のすべてがユダヤ人ではないことは明らかです。しかしまた、ユダヤ人のすべてがユダヤ教徒でないことも明らかです。そもそも、ユダヤ人とは何か、パウロの時代から2千年たった現代では、その定義すら難しくなっています。そのことはイスラエル共和国が建国された時から、しばしば議論になる問題です。
 しかし、これらのことにあまり深入りしないで、とにかくはパウロの論点を追って行きたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 9章30節〜10章4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

 前回の学びでは、神の選びという教えに反対する人たちの考えに対して、パウロが弁明を記した個所を取り上げました。その反対論は、選びの教理が正しいとするならば、神がなお人間の責任を追及されるのはおかしなことだ、とするものです。

 それに対するパウロの弁明の第一点は、神の選びに対して、人間的な観点から意義を申し立てること自体、不遜な態度であるという主張です。神の選びがあるなら、人間に責任がないと考えたり、人間に責任がある以上は、神の自由な選びなどあり得ない、と考えること自体が、人間の高慢な思いから出たものなのです。まして、選びの結果に対して苦言を申し立てることなど人間には許されないことです。
 従って、人間的な論理に振り回されて、神の主権や選びについての教えを捨ててしまうことはパウロにはできませんでした。

 では、人間は神の命令通りに動く、自由な意志など全くない存在とパウロは考えていたのでしょうか。きょう取り上げた個所では、イスラエルが義とされなかったのは、彼ら自身の考えに基づくものである、と記されています。

 「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」

 彼らは、自分の意志に反して、「(神の義が)行いによって達せられるかのように考えた」のではありません。彼らは自分の意志で、行いによる義を達成しようと考えたのです。

 パウロは神の選びと人間の自由意思とがどう調和するのか、という問題には深入りしませんが、両者が矛盾なく成り立つことを前提に語っているのです。イスラエルには義の律法を追い求めた責任も、また、それを果たし得なかった責任もあるのです。

 では、なぜ、イスラエルは「行いによる義」という考えに固執してしまったのでしょうか。どうして、そこから抜け出すことができなかったのでしょうか。

 パウロは「彼らはつまずきの石につまずいたのです」と、その理由を述べます。このつまずきの石とは、イエス・キリストを指しています。特に十字架にかけられたメシアはつまずきでした。なぜなら、ユダヤ人にとって木にかけられた者は呪われたものだったからです。そのようなメシアを信じることを通して、神の義を受け取ることができるとは、受け入れがたいつまずきだったのです。しかし、神はこのつまずきの石により頼む者は、失望することがないと、預言者を通して語って来られたのです。この十字架のキリストにこそ、まことの希望があり、このお方を他にして、救いへの道はないのです。

 このように自分の自由な意志で、律法による義の道を追求しながらも、それを果たし得ないばかりか、神が用意した信仰による義の道をも拒んでしまったイスラエルの責任をパウロは描きますが、しかし、パウロは決して彼ら同胞を冷たく裁いているのではありません。

 この問題を取り扱う時に、9章の冒頭で、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(9:3)と述べているとおりです。パウロの心には同胞の不信仰に対する怒りよりも、悲しみと痛みの方が勝っているのです。
 その同じ思いを、10章の冒頭で繰り返します。

 「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」

 確かに、肉のイスラエルは神の深い御計画により、自分の意志でキリストを捨てましたが、しかし、そのことを理由に、救いのための祈りを放棄したりはしないパウロの姿勢に学びたいと思います。神の選びの教えは、決して人間を人間に対して冷たくするものではありません。

 さて、パウロはイスラエルの救いを祈りながらも、しかし、なお、彼らが持っている欠点をも指摘してはばかりません。その欠点とは、イスラエルの熱心がキリストを知る知識から離れているという点です。

 まことの知識とはキリストを離れては成り立たないのです。

 パウロは「キリストは律法の目標であります」と述べています。この場合、「キリストは律法の目標」とは「キリストは律法の終わりである」とも訳せる言葉です。「目標」という意味に解するならば、キリストを抜きにした律法の理解はあり得ないということでしょう。また、「終わり」という意味にとるならば、キリストによってその目標は成就したという意味でしょう。パウロのこの言葉にはこの二面性があります。いずれにしても、律法が目指す神の義はキリストによって成就され、従って、律法による義はキリストによって終わりを迎えたのです。