2011年9月29日(木)御言葉に対する反応の違い(ローマ10:14-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書の言葉に対する人々の反応というのは、実に様々です。否定的な反応もあれば、好意的な反応もあります。否定的というのにも、敵意をあらわにした反応もあれば、無関心そのものの反応もあります。また、好意的な反応にも、「単に良い話」という反応から、すっかり魅了されてしまう反応まで様々です。その様々な反応も、人間的な予測を少しも許しません。この人は絶対に興味など持たないだろうと思っていると、案外そうではなかったり、逆にこの人なら十分に聖書を受け入れる素地を持っていると思われる人が、頑なに心を閉ざしてしまうこともあります。
 もちろん、それだけの話なら、政治思想や哲学思想を書きつづった本についても同じことが言えるかもしれません。
 ただ、長年、聖書から語り続けてきた経験から、特に不思議に思うことは、語り手の話の論理の正しさや、説得力のあるなし、という問題をはるかに飛び越えて、聖書の教えを心から受け入れる人たちが必ずいるということです。キリスト教的に言えば、聖霊が聖書の御言葉と共に働いて、その人の理解を助けたということでしょう。
 では、聖書の言葉を受け入れなかった人には、聖霊が働きかけなかったのかというと、必ずしもそう断定することはできません。後になって、熱心に聖書の語ることに耳を傾けるということも起こるからです。
 要するに、人の反応を予測することは、人間であるわたしたちにはできないということです。そうだからこそ、先入観や偏見にとらわれずに、あらゆる機会を惜しまずに福音を語り続けることの大切さを思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 10章14節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

 先週取り上げた聖書の個所の一番最後で、パウロは「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」という言葉を旧約聖書ヨエル書3章5節から引用しました。それは福音がユダヤ人ばかりではなく、異邦人にも伝えられ、信じる者にはだれでも救いが約束されていることを明らかにするためでした。
 そのことは、当然、呼び求めるべき主であるお方を知っている、ということが大前提です。きょう取り上げた個所は、そのことを受けての展開です。

 14節から15節にかけてたたみかけるように、「主の名を呼び求める」ということについての問いが続きます。

 「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」

 この問いは、キリストを信じないユダヤ人からの反論を想定しての問いです。つまり、聞いたこともないものを信じることなどできないし、その名を呼び求めることなどあり得ないというものです。もし、民族としてのイスラエルが遣わされたイエスをキリストとして受け入れないとしても、それはイスラエルの責任ではなく、聞かされなかったことに原因があるのだ、という反論です。

 しかし、この一連の問いは、まさにパウロの答えそのものでもあります。つまり、確かに使徒たちは福音を委ねられて遣わされたのですから、確かに福音を宣べ伝えたのです。宣べ伝えたのですから、確かに耳に届いているはずです。聞かされなかったという言い訳は通用しません。現に異邦人たちは聞いたからこそ信じたのですから。

 けれども、聞いた者が皆信じたのかというと、現実はそうではありませんでした。聞いた者が皆信じ、信じた者が皆主の名を呼び求めるのであれば、良い知らせを伝える者が遣わされさえすれば、皆が救われるはずです。しかし現実は、耳にまで届いた福音も、必ずしもすべての人が信じて受け入れたわけではありませんでした。

 18節に至っても、パウロはくどいほど、イスラエルが福音を聞いたのか聞かなかったのか、その点を確認します。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」と記す旧約聖書詩編の言葉を引用して、「もちろん聞いたのだ」ということを強調します。
 続く19節以下では、さらに一歩踏み込んで、「聞いたのは音として聞いただけで、意味を理解しなかったのではないか」という可能性も否定します。
 なぜなら、聖書の預言の言葉の通り、異邦人でさえ福音を聞いて理解し、信じたのですから、御言葉に慣れ親しんでいるユダヤ人が、福音の内容を理解できなかったという言い訳はできません。
 どの方向から考えても、キリストを拒絶し、福音に耳を傾けないイスラエルの罪の責任は彼ら自身にあるということです。

 そのイスラエルについて、イザヤの預言の言葉をパウロは引用してこう述べます。

 「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」

 この旧約聖書の言葉の引用には二つの意図があります。一つは、神の言葉に耳を傾けようとしないイスラエルの不従順な態度をあからさまに指摘するということです。彼らは神の言葉を理解できなくて従わなかったのではなく、神の言葉に反して不従順で反抗的な態度を示したのです。従って、弁解の余地はないということです。

 しかし、その様な不従順で反抗的な態度を示すイスラエルに対して、神は御手を差し伸べておられるという、神の憐れみと寛容とを明らかにすることも、この預言の言葉の引用が意図するところです。この神の憐れみと寛容とが、次の11章で展開されるイスラエルの回復の問題と深くかかわって来るからです。

 人類の救いについて、神の主権と選びだけを強調すれば、宿命論や運命論に終わってしまいます。福音を拒む人間の責任をうやむやにしてしまうことはできません。しかし、福音を拒む者を神がただちに罰してしまうなら、救われる者はほとんどいないでしょう。この手紙を書いたパウロでさえも救われはしなかったでしょう。
 神の選びと人間の責任と、そして、神の憐れみと寛容とを正しく理解する者が、忍耐と寛容と謙遜をもって福音を伝え続けることができるのです。