2011年11月10日(木)一人一人は部分(ローマ12:3-8)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の中に、神の全知全能をめぐっての面白い文章があります。同じ材料から出来ていながら、この世の中に一人として同じ顔がないということは、人間をお造りになった神が全能のお方である証拠だという人間の議論に対して、猫である「吾輩」はまったく逆の見方をしているというのです。つまり、まったく同じものを二つ作る方が、変化を付けて造るよりももっと難しいではないかというのです。
 これは明治時代に入ってきたキリスト教に対する皮肉を込めた文章です。なるほど、同じ画家でさえまったく同じものを、昨日描いたようにきょうも描くことはできません。人間の造るものにはバラツキがあるので、そのバラツキを何とかして均一にするために、努力してきたのが近代から現代にいたるものづくりの世界です。
 確かにものづくりの世界では、この均一さこそ、技術力の表れで、そういう意味では人間は全能者に近づいたと豪語できるかもしれません。
 しかし、ものづくりの均一さを人間社会にまであてはめようとするところに、人間の愚かさがあるように思います。一人一人の個性を認めなければ、規格から外れた人間は人間として扱われなくなってしまいます。もちろん、その規格自体があてになる規格でないことは言うまでもありません。すべての人が違うからこそ素晴らしい人間社会なのに、それを意味のない均一化でまとめて、それを平等の社会と思いこんでいるところに人間の愚かしさがあります。
 きょう取り上げる個所で、パウロは一人一人に与えられた賜物に違いがありながら、それらが教会の中でどのように生かされるべきなのか、その原則となる指針を与えています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 12章3節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

 前回取り上げた個所では、キリスト者の生活の根本原理は、神に対して聖なる生けるいけにえとして自分自身を献げる生き方であることを学びました。今回取り上げる個所では、人間同士が集まる共同体の中で、一人一人がどういう責任をもって互いに生きるべきかが記されています。もちろん、ここで念頭に置かれている共同体は、キリストを頭とした教会の共同体であることは言うまでもありません。しかし、ある程度はどの社会についても当てはまる部分があることも確かです。ただ、ここでパウロが記していることを、あまりにも一般化してしまうのは、パウロの本意ではありませんので、キリスト者としての共同体にあてはめられた原理として読んでいくことにします。

 パウロは、キリストを信じる者たちが形作る共同体の中では、「自分を過大に評価してはなりません」と命じます。もっとも、そう語るパウロ自身が、自分を偉そうに過大評価して、このようなことを尊大にも語っているのではありません。パウロはそのような誤解を与えないように「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います」と述べています。確かにパウロには神から与えられた使徒としての権威がありました。しかし、その権威でさえ、パウロは神からの恵みとして謙虚に受け止め、与えられた恵みによって命じているのです。
 恵みというのは、パウロの理解によれば、当然与えられる報酬でも権利でもありません。パウロは使徒としての職務を自分の手で勝ち取ったなどとは少しも思っていません。まったくの恵みによって立てられた者として、同じようにまったく恵みによって違う賜物を与えられた人々に自分を過大に評価しないようにと勧めているのです。
 思うべき限度を超えて自分を過大に思うことは、その分だけただちに他人を過小評価することにつながってしまいます。そして、そのような、他人を過小評価している自覚がないところにこそ、問題の根があるのです。さらに言えば、他人を過小評価するということは、その人に与えられた神の恵みを過小評価することにつながるのです。それは言うまでもなく、恵みをお与えくださる神ご自身を否定しているのと同じです。

 そのように過大な評価を自分に下し、他人をさげすまないために、パウロは「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と勧めます。パウロは、人間のはかりではなく、信仰のはかりにしたがって、しかも神がお与えくださった信仰のはかりにしたがってつつしみ深く各自を評価するようにと命じています。

 というのも、パウロの念頭にはいつもキリストを信じる者の共同体が、キリストを頭とした一つの体として描かれているからです。体というのは、さまざまな部分から成り立っているのは言うまでもありません。手だけの体というものも、足だけの体というのもありません。体には手があり、足があり、手には指があり、顔には目や鼻や口があるように、教会に集う一人一人のキリスト者も、そのように一つの体なる教会を造り上げているのです。しかも、その一つの体を構成している部分は多様な部分からなっていますが、部分同士を比較して、どっちが優れているとはいえないものです。むしろ、互いに他を必要としているからこそ、一つの体としてもっともよく機能していくことができるのです。

 キリストを信じる者たちは、互いに他を必要とする体の部分であるという認識があるとすれば、そこには尊大な思いも、さげすむ思いも生まれて来るはずもありません。自分に与えられた責任を互いに果たすことで、体としてもっともよく成長できることを覚える必要があるのです。

 教会という共同体は、画一的な集団でもなければ、他を排除する集団でもありません。そうかといってバラバラな人間がただ意味もなく集まっているのでもないのです。キリストを頭として一体性と多様性を保ちながら豊かに成長していく共同体なのです。そして、そのような共同体を自分もまた構成している一人一人であることを謙虚に自覚し、たがいに対して果たすべき責任を深く思うことが大切なのです。