2012年3月15日(木)預言者ヨエルの言葉の成就(使徒2:14-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書と新約聖書を読み比べて、その大きな違いの一つに、「聖霊」という言葉が登場する回数の違いがあります。例えば、新共同訳聖書の翻訳で調べると、旧約聖書には「聖なる霊」という言葉が、わずかに三度出てくるくらいです(詩編51:13、イザヤ63:10,11)。もちろん、「神の霊」とか「わたしの霊」という言葉を含めればもう少しは多くなりますが、それでも、新約聖書に登場する「聖霊」という言葉の多さに比べれば、比較にならないほどです。
 しかも、旧約聖書と新約聖書とでは、もともと全体の文書量が違いますから、割合から言えばさらに新約聖書に占める「聖霊」という言葉の頻度は多くなります。
 このこと一つを取り上げても、新約聖書の時代にとって、聖霊がどれほど大きな意義を持っているかということがお分かりいただけるかと思います。

 きょう取り上げようとしている個所には、この聖霊が注がれることが、まさに時代のしるしとして描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 2章14節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」

 前回学んだ個所には、五旬祭の日に、聖霊が激しい風の音と共に現れ、弟子たちの上にとどまった話が記されていました。しかも聖霊を受けた弟子たちは、今まで話したこともないような様々な外国の言葉で、神の偉大な御業を語り始めたということでした。
 その様子は、弟子たちが話す外国語を理解出来ない人々にとっては、弟子たちがお酒に酔ってわけの分からないことをつぶやいているとしか思えませんでした。
 そういう人々の反応に対して、弁明の言葉を述べたのはペトロでした。きょうは誤解する民衆にこの日の出来事の意味を解き明かす、ペトロの説教から学びたいと思います。

 ペトロは人々の誤解を正すために、まず、今が朝の九時であることを指摘します。もちろん、どんな時代にもどんな国にも朝っぱらからお酒に浸っている人はいるかも知れません。しかし良識あるユダヤ人にとっては、朝からお酒に酔いつぶれて、訳のわからないことをわめきちらすなどどいうことは、ありえないことです。いえ、どこの国の人でも朝の九時からお酒に酔いつぶれるなどということは、あってはならないことです。ペトロはそういう人間の良識にうったえて、自分たちがただの酔っ払いではないことを告げます。

 もちろん、ペトロが声を張り上げて語りだしたのは、自分たちがただの酔っ払いでないことを理解してもらうためではありませんでした。この日のこの出来事の意味を、ペトロは集まってきた民衆に知ってもらいたかったのです。

 「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」

 集まってきた民衆たちは、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たち一人一人の上にとどまる様子を見たわけではありません。民衆が集まってきたのは、激しい風が吹いてくるような物音に驚いてのことでした。しかも、民衆たちが目にし、耳にしたのは、弟子たちが外国の言葉で神の偉大な業を語っているという現象です。そのことが何故起こったのか、彼らには知る由もありません。もちろん、このことが起こったのは、聖霊の働きによるなどとは、考えも及ばなかったに違いありません。

 番組のはじめでも言いましたように、旧約聖書には神の霊の働きについての記事はほとんどありません。あったとしても、それは特別な職務を帯びた人だけにしか働きかけないものでした。もちろん、後で見るように、ペトロ自身がこの日の出来事の意味を旧約聖書から解き明かしているのですから、旧約聖書を注意深く読み、そこに記されていることをずっと期待して待ち望んでいれば、少しはこの日の出来事を理解できたかもしれません。しかし、多くの人々にとっては、この日の出来事と旧約聖書に記されたこととは、頭の中で結びつかない出来事だったのです。そうであればこそ、弟子たちをただの酔っ払いにしか思わなかったのです。

 ペトロはヨエルの預言の言葉を自由に引用しながら、この日の出来事が、実は昔から知らされてきた預言の言葉の成就であると解き明かします。

 ペトロ自身が、どうやってこの日の出来事がヨエル書に預言されたことの成就であることに気がついたのかはわかりませんが、預言者ヨエルの言葉を引用しながら、きょうのこの日の出来事についてこう語ります。

 「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』」

 これはヨエル書3章からの自由な引用です。この預言の言葉が画期的であるのは、神ご自身がご自分の霊を、ごく限られた人にではなく、全ての人に、老若男女を問わず、奴隷に至るまで注ぐと約束されている点です。
 祭りのために集まった敬虔なユダヤ人たちから見れば、キリストの弟子たちは、ただの普通の人々でしかありませんでした。後にユダヤの最高法院の議員たちは、弟子たちが「無学な普通の人であることを知って驚いた」とありますが(使徒4:13)、まさにキリストの弟子たちは普通の人たちでした。その彼らの上に、神は約束通りご自分の霊を注いでくださったのです。

 しかも、ペトロはこの出来事を「終わりの時」のしるしと理解しています。旧約聖書のヨエル書自体には、「終わりの時」という言葉は出てきません。しかし、ヨエルが使っている「その後」(正確には「それらの日々に、そしてその時に」)という言葉は、預言の言葉の前後関係から判断して、終末的な時を示していることは間違いありません。その意味で「終わりの時」と言い換えたペトロの引用は正しいということができます。しかし、それ以上に大切なことは、ペトロが今起こっているこの出来事をヨエル書の預言の成就であると理解し、今の時を終わりの時代への突入と理解しているという点です。今の時代は、やがてやって来る終末の時を、まだまだ先のこととして待っている時代ではないのです。すでに終わりの日の出来事の一貫として、聖霊の注ぎを受けているということです。