2012年4月5日(木)キリストと結ばれた共同体(使徒2:42-47)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会の外にいる人たちが、教会に対して抱いているイメージは、その人が個人的にどんなクリスチャンに接したかによって、さまざまに形作られてます。しかし、大体の人は肯定的で良いイメージを持っているのではないかと思います。たとえば、清いイメージや、穏やかで心休まるイメージといった具合です。その半面、堅苦しいイメージや厳格でとっつきにくいイメージもあるようです。今の時代ともなれば、さすがにキリスト教を邪宗門と思う人の数はずっと少なくなってきているように思います。
 では、教会内部の人間が、自分たちの現実の教会の姿をどう捉えているのかとなると、厳しい意見がたくさん出てきそうな気がします。教会に対する理想が高ければ高いほど、現実の教会の姿を批判する声が聞こえてくるのも当然のことのように思います。教会に自分自身を浄化していく思いがなければ、ますます理想から遠ざかって行ってしまうことは明らかです。神のことばによって、いつも改革され続ける教会こそ、教会の理想と言えるかも知れません。

 さて、きょう取り上げる個所には、初代教会の人々の理想的な生活の姿が記されています。この教会の姿は、今もなお見習うべき模範であるように思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 2章42節〜47節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 前回は、ペトロの話に感じ入った人たちが、洗礼を受けて弟子たちの仲間に加わった出来事を学びました。今回は、それらの人たちによって形作られた集団が、どのような生活を送っていたのか、使徒言行録に記された簡潔な記事から学ぼうとしています。

 まず、使徒言行録は、それらの人々が、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と述べます。「熱心であった」という言葉は、ある事柄に固く留まったり、しっかりと行ったりする様子を表す言葉です。他のことはともかく、自分たちのなすべきこととして、これだけは譲れないというべきものが、四つ挙げられています。「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」この四つです。

 まず最初に上げられることは、「使徒たちの教え」に熱心であったということです。それは、「使徒たちの教え」をしっかりと守った、堅持したということです。
 なぜ、「キリストの教え」ではなく「使徒たちの教え」と言われるのか、不思議に思われるかもしれません。イエス・キリストの御名によって洗礼を受けたのですから、キリストの教えを熱心に守ったと言う方がよさそうに感じられます。
 もちろん、ここでいう「使徒たちの教え」というのは「キリストの教え」と対立するものでもなければ、「キリストの教え」に付け足したものでもありません。まさに「キリストの教え」そのものです。
 しかし、イエス・キリストは既に父なる神のもとへとお帰りになったのですから、今までのように直接教えを人々に語り聴かせるということはありません。使徒たちを通してご自分の教えを広めていらっしゃるのです。マタイによる福音書には、復活したキリストが使徒たちにこう命じています。
 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19-20)。

 つまり、キリストが守るようにと使徒たちに命じておいた教えを、使徒たちが洗礼を受けた人々に伝えた、という意味で「使徒たちの教え」と呼ばれるのです。初代の教会の人たちにとって、それがキリストの教えと合致しているかどうかは、使徒の教えによってしか知ることができません。ですから、「使徒たちの教え」をしっかりと守り、伝えることは、教会の純粋性を保つ上で欠かすことができない事柄なのです。今日では新約聖書こそがその使徒たちの教えの集大成と言うことができるでしょう。

 二番目に挙げられていることは「相互の交わり」に熱心であったと言うことです。「相互の交わり」という言葉は「コイノーニア」というギリシア語の訳ですが、もともとの意味は、何かを共有すること、何かに共に与ることです。2章44節に「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」とありますが、ここに使われている「共有する」という言葉は、「コイノーニア」と関係のある言葉です。つまり、コイノーニアとは物を共有できるほどに親密な間柄をあらわす言葉です。それは言いかえれば、家族のような共同体であると言ってもよいでしょう。初代の教会の人々は、そのような親密性を大切にしたということです。
 もちろん、その家族のような共同体は、父なる神によって、御子イエス・キリストのゆえに神の子とされた者たちで構成される集団です。そういう共同体としての相互の交わりをしっかりと守ったということです。

 三つ目に挙げられていることは、「パンを裂くこと」です。この「パンを裂くこと」については、使徒言行録の中にたびたび登場します(2:46、20:7,11)。この場合、「パンを裂くこと」という言葉からすぐに連想されるのは、主イエス・キリストが最後の晩餐の時に、弟子たちにパンを裂いて分け与えたことを記念する、いわゆる聖餐式のことだろうと思います。しかし、ルカによる福音書も使徒言行録も、この言葉を一般の食事に対しても用いていますから(ルカ24:35.使徒27:35)、必ずしも聖餐式を熱心に行ったという意味に限定して考える必要はないでしょう。しかし、ただの食事会を熱心に行っていたと考えるのも事柄を十分に捉えているとは言い難いように思います。コリントの信徒への手紙11章に記されている状況のように、普通の食事会といわゆる聖餐式とは別の機会に持たれたのではなく、同じ機会に持たれたのだとすれば、ここでは、聖餐式も含めた愛餐会を意味しているのかもしれません。

 最後に四番目として挙げられているのは、「祈ること」に対する熱心です。初代教会が祈りに熱心であったことは、前にも触れたことがありますが、それは、イエス・キリストの祈る姿に倣うものでした。祈りながら主の業に励む姿勢は、今日の教会にも受け継がれるべき、大切な主の模範なのです。