2012年4月26日(木)命の導き手、栄光の主(使徒3:11-16)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 初代教会にとって一番の苦労は、十字架につけられたナザレのイエスこそがまことの救い主である、ということを宣べ伝えることであったことは、疑いの余地もありません。もっとも、その困難を弟子たちは自分たちの手でなんとか乗り越えなければならない、というものではありませんでした。何よりも神ご自身が、十字架につけられたイエスを、死者の中から復活させられ、栄光のうちにお入れになった、という確かなしるしをお与えになったからです。その復活の証人として、弟子たちは遣わされているのです。
 そればかりか、イエス・キリストと同じように奇跡と不思議なしるしを行う力を与えられ、確かに自分たちが救い主であるイエス・キリストから遣わされた証人であることを、力強く示すことが出来ました。
 弟子たちはまずこの証を、同胞の民であるユダヤ人たちに語りました。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 3章11節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

 前回の学びでは、エルサレムの「美しい門」のところにいた、生まれつき足の不自由な人を、ペトロたちが癒した出来事を学びました。癒された男は神を賛美しながら、ペトロとヨハネと一緒に神を礼拝するために神殿の境内に入って行きました。前回の場面は、この様子を見た人々が、我を忘れるほど驚いた、と締めくくるところで終わっていました。
 きょう取り上げたのは、その続きですが、祈りを終えたペトロとヨハネが神殿の境内を出て、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所に行きます。この回廊は神殿の東側にありますが、イエス・キリストはかつてこの場所でユダヤ人の質問に答え、石で撃ち殺されそうになったことがある場所です(ヨハネ10:22-31)。また、このあと使徒言行録には使徒たちが心を一つにして一緒に集まる場所として「ソロモンの回廊」のことが描かれています(使徒5:12)。

 さて、足を癒していただいたこの男は、神殿で一緒に祈りを捧げたあとも、なおペトロたちから離れようとはしないで、ずっと一緒についてきました。この男にとってはペトロもヨハネも、いわば恩人のような人物です。ずっとつきまとうのも当然でしょう。
 しかし、ペトロとヨハネのところにいたのは、この男一人ではありませんでした。様子を見た人々が、ソロモンの回廊にいたペトロたちのところに一斉に集まってきます。我をわすれるほど驚いた民衆たちですから、一斉に駆け寄ってくるのも当然です。
 人々にイエス・キリストについて語る絶好の機会が、またしても訪れました。エルサレムの民衆を相手に語るのは、ペトロにとってはこれで二回目です。好奇の目をもってペトロたちを見つめる民衆に、こう切り出しました。

 「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」

 不思議なしるしを見て、驚かない人がいるとしたら、むしろその方が驚き怪しむべきことです。しかし、ペトロは開口一番、我を忘れるほど驚いている民衆に、「なぜこのことに驚くのですか」と問いかけます。まるで、彼らが目にしている出来事は、当然起こるべくしておこった出来事である、と言わんばかりです。

 それと同時に「なぜ、わたしたちを見つめるのですか」と問うて、もっと目を注ぐべきお方がいらっしゃることを指摘します。確かに目の前で起こっている出来事は、民衆の注目を集めるには絶好の出来事でした。しかし、出来事そのものの不思議さにではなく、また、出来事に直接関わったペトロやヨハネにでもなく、その出来事が何を物語っているのか、民衆の心をそのことに向けさせようと、ペトロは語り出します。

 ペトロの主張は、16節にある通り、イエスの名がこの男を強くしたこと、そして、それはイエスの名を信じる信仰によるものである、ということでした。

 主張の第一点は、イエスの名がこの男を強くした、ということですが、大切なのは、この男を強めたイエスというお方が、どのようなお方であるのか、というペトロの主張です。

 ペトロは「自分たちではなく、イエスの名がこの男を強めた」といきなり結論を語るのではなく、まず、「神がその僕イエスに栄光をお与えになった」ということを語ります。しかも、その場合に、栄光をお与えになった神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とわざわざ紹介しています。ユダヤ人を相手に語っているのですから、「神」というだけで「唯一まことの神」以外の誰をも意味しないことは言うまでもないことです。しかし、あえて「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ぶことで、かつてモーセに現れて、ご自身をそのように呼ばれた聖書の神が、今なお生きてイスラエルのうちに働いておられ、イエスに栄光をお与えになった、ということを強調しているのです。つまり、救いの歴史に一貫して働いておられる神のみ業の結果として、イエスに栄光が与えられたことを語っているのです。

 さて、「その僕イエスに栄光をお与えになった」というメッセージは、イザヤ書53章に描かれる苦難の僕を背景に理解されるべきメッセージです。イザヤ書が描く苦難の僕は、民の罪を背負い、民から侮られて、苦しみを受けます。しかし、驚くべきことに、見るべき姿もないこの苦難の僕を、主なる神は高く上げ、栄光を賜ったのです。それと同じように、ユダヤの民衆は、ナザレのイエスを異邦人の手に引渡し、十字架の苦しみを与えましたが、今や神はこのキリストを死者のうちから復活させ、栄光をお与えになったのです。このことはすでに苦難の僕についての預言を通して語られていたことなのです。

 ところで、ユダヤの民衆たちが十字架にかけて殺してしまったこのイエスを、ペトロは「聖なる正しい方」「命への導き手である方」と呼んで、そのお方を十字架にかけてしまった同胞の罪を指摘しています。しかし、このイエス・キリストを復活させ、栄光をお与えになることで、神はこのお方が「聖なる正しい方」であり「命への導き手である方」であることを示されたのです。そして、このイエスの名を信仰をもって受け入れるこの男は立ち上がることができたのです。