2012年5月3日(木)メシアであるイエスに立ち帰れ(使徒3:17-26)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 使徒言行録を読んでいて興味をひかれることの一つに、その当時、使徒たちが聴衆を前に語ったキリスト教のメッセージがあります。いったいどんなことをどういう切り口で語っているのか、ということは、御言葉の説教を委ねられている現代の牧師に限らず、現代の聴衆にとっても関心があるのではないかと思います。
 もちろん、使徒言行録が記録している使徒たちの説教が、どこまで忠実な記録であるのかという問題があるかもしれません。少なくとも一言一句を書き留めた速記録ではないだろうと推測します。しかし、話の要旨さえも自由に編集されるほど実際の説教からかけ離れたものとも思われません。

 きょう取り上げようとしている個所には、悔い改めてイエス・キリストに立ち帰るようにとせまるペトロの力強いメッセージが記されています。いったいペトロはどういう話の運びでユダヤ人にこの大切なメッセージを語り伝えたのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 3章17節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

 きょう取り上げた個所は、前回取り上げたペトロの説教の続きです。前回取り上げた前半では、「美しい門」のところにいた足の不自由な者が、どのように癒されたのか、ということが語られました。それはペトロやヨハネの力によるのではなく、イエス・キリストの力によるものであったこと、そして、それはイエスの名を信じる信仰によってもたらされたものであるということが明らかにされました。

 きょうの個所では、そのイエスというお方がどのようなお方であるのか、神の民であるイスラエルとどうかかわり、聖書の預言と約束とどういう関係にあるのかが述べられています。いうまでもなく、それを語るのは、イスラエルの民を悔い改めへと導き、イエスを神がお遣わしになったメシアとして受けいれさせるためです。

 前回はイエスの名がその男を癒した、という大切なメッセージをペトロは語り伝えましたが、そのイエスとはユダヤ人たちが十字架に引き渡して殺してしまったお方であり、神が死者のうちからよみがえらせて、栄光をお与えになったお方でした。そこには神がお遣わしになったお方を殺してしまったという、イスラエルの罪に対する指摘が込められています。しかし、それにもかかわらず、きょうの個所では、ペトロの口から寛大な言葉が聞かれます。

 「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。」

 確かに、イエスが神から遣わされたメシアであることをイスラエルの人々が知っていれば、決して十字架につけたりはしなかったでしょう。そういう意味では、彼らは無知のために、なすべきことを悟らず、してはならないことをしてしまったのです。もちろん、無知であることについて、彼らにまったく落ち度がなかったのであれば、彼らの罪を責めることはできません。しかし、後で見るように、預言の言葉に真摯に耳を傾けさえしていれば、知らないはずはないことでした。

 しかし、今はペトロはその問題に深く突っ込んだりはしません。むしろ無知の罪さえも用いて、預言者を通して告げられたご自身の御計画を、神は今や成し遂げられた、というメッセージを伝えます。

 そのことを踏まえたうえで、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」とイスラエルの民にペトロは悔い改めをせまります。ペトロの願いは、彼らが自分たちの犯した罪のゆえに滅んでしまうことでは決してありません。そうではなく、神が遣わされたイエスを救い主と信じて救われることです。
 ペトロがイスラエルの人々に悔い改めを迫るのは、第一に自分たち自身の罪が赦されるためです。そのためにこそ、救い主はこの世にやってきて、十字架の上で罪の贖いの業を成し遂げられたのですから。

 しかし、ペトロがイスラエルの人々に悔い改めを迫るのは、ただ過去の罪が赦されるため、というばかりではありません。

 悔い改めを通して、今は天の御国で神の右に座しておられるキリストが、再び神から遣わされてやって来る時が訪れるのです。その時にこそ、すべてのものが改まる、万物更新の時が訪れるのです。もちろん、人間の悔い改めがキリストの再臨を引き寄せるということではないでしょう。しかし、悔い改めのないところに神の国の完成はあり得ないのです。

 さて、このキリストについて、ペトロはさらにモーセの語った言葉を引用して、このお方がどんなお方であるかを語ります。申命記18章15節以下の引用です。

 「あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。」

 ここではキリストは、モーセよりも偉大な第二のモーセとして、神の御心を取り次ぐ真の預言者として紹介されます。ペトロはさらにモーセ以降の預言者たちもこぞって、今の時、イエス・キリストにおいて成就されるべきことを告げてきたことを指摘します。ここではいちいちその個所を引用してはいませんが、新約聖書のあちこちにみられる、キリストについての旧約聖書からの引用から、その個所がどこを指しているのかは容易に想像がつきます。

 最後にペトロは話の結論をこう締めくくっています。

「それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

 この言葉はイスラエル人に向けた言葉ですが、しかし、同じ招きは、このあと、異邦人にももたらされるのです。