2012年6月14日(木)しるしと不思議な業(使徒5:12-16)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 福音書とそれに続く使徒言行録を読むと、そこにはイエス・キリストご自身と使徒たちとが、奇跡や不思議な業を行っていたことが記されています。その記事自体の信ぴょう性を疑い始めればキリがありませんが、少なくとも聖書記者たちは、それが本当であったことを後世の人々に伝えようとしていることは疑いようもありません。
 それとは対照的に、イエス・キリストや使徒たちが行っていたような奇跡の業が、今なおキリスト教会で行われ続けているのか、というと必ずしもそうではありません。少なくともわたし自身の経験では、一度も目撃したことはありません。もちろん、わたし自身が奇跡を起こしたことも一度もありません。ただ、現代の医学では絶望的とも思える状態のけが人や病人が、奇跡的に回復を遂げたという体験ならばあります。回復のために一生懸命祈ったのですから、祈りが聞きあげられたという奇跡であると言えば、そうかもしれません。しかし、使徒たちの行った奇跡とはやはり違うものだと思います。
 しかし、それとは反対に、同じキリスト教会の中には、使徒たちと同じような奇跡を起こすことが、今でもできると主張している人たちがいることも知っています。もちろん、聖書が完結したのと同時に、奇跡やしるしを必要としなくなったと理解する神学的な議論がキリスト教会の中にあることも知っています。ただ、わたし自身が見たこともないことについて、安易に肯定したり否定したりすることだけは避けたいと思っています。
 さて、きょう取り上げる個所には、まさに使徒たちが行ったしるしと不思議な業について記されています。そんなことがありうるのか、あり得ないのか、という視点からではなく、このことを通して、使徒言行録はわたしたちに何を語ろうとしているのか、そのことを見ていきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 5章12節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

 きょう取り上げた個所は、今まで使徒言行録の中に何度か出てきた、当時の教会の様子を語る要約的な記事の一つです。具体的にいうと、聖霊降臨の出来事の後で、その当時の教会の様子が2章43節以下に記されていました。同じように「美しい門」で行った奇跡とその後の事件の後で、4章32節以下に教会の様子が記されています。きょう取り上げた個所は、アナニアとサフィラ夫妻の事件のあとで、教会の様子を再び語る個所です。
 この三つの要約記事すべてに共通しているのは、心や思いを一つにした、教会の一致した姿です。どの記事にも教会の一致した姿が描かれています。そして、2章に出てきた要約記事ときょうの個所に出てきた要約記事だけに共通している点は、使徒たちのおこなっている「しるしと不思議な業」に言及している点です。4章に出てきた要約記事が使徒たちの行ったしるしや不思議な業に触れていないのは、ある程度その理由が理解できます。というのは、その直前まで具体的なしるしについての大きな記事を取り扱ってきたからです。つまり、2章の要約記事と4章の要約記事の間には、「美しい門」のところにいた足の不自由な男を癒した話が長々と取り上げられていますので、4章の要約記事のところでは、教会の様子の別な側面が特に取り上げられていると考えてよいでしょう。

 しかし、4章に記された要約記事と、きょうの個所に記された要約記事は、別な観点から見ると、きれいなつながりを持っています。というのは、「美しい門」のところで行われた奇跡のために、使徒たちはユダヤ最高法院の取り調べを受けたわけですが、釈放された使徒たちを迎えた教会は、使徒たちの働きのために祈りを捧げて、二つのことを願いました。その一つは、使徒たちが大胆に御言葉を語ることができるように、というものでした。もう一つは、しるしと不思議な業が行われるように、というものでした。
 その直後に記された4章の要約記事の中では、さっそく大いなる力をもってイエスの復活を証しした使徒たちのことが描かれています。これは、第一の願いがさっそくかなえられて、使徒たちが大胆に証しを語ったという報告になっています。
 もう一つの願いである「しるしと不思議な業が行われるように」という点に関しては、まさにきょうの個所がそのことを扱っているということができます。つまり、4章に出てきた要約記事と、きょう取り上げた要約記事が、それぞれ祈りの願いに対する神からの答えとして描かれていると受け取ることができるということです。そのようにして、教会は信徒たちの祈りによって進むべき道が開かれ、道が開かれるままに、主から委ねられた業を大胆に推し進めていったということなのです。このことは、教会の発展を考える上で重要なポイントであると思います。

 ところで、きょうの個所に出てくる「しるしと不思議な業」というフレーズは、この使徒言行録の中で重要なフレーズとして繰り返し出てきます。一番最初に出てくるのは、2章22節で、最初このフレーズは使徒たちにではなく、イエス・キリストについて用いられています。しかし、そのあと、あたかもイエス・キリストの働きを使徒たちが受け継いだかのように、何の違和感もなく使徒たちの働きについて、「しるしと不思議な業」というフレーズが使われるようになります(2:43、5:12)。さらに、6章では使徒ではない人物、ステファノも「すばらしい不思議な業としるし」(6:8)を行う人として登場します。さらに8章に入るとステファノと同じ時に選ばれたフィリポが「すばらしいしるしと奇跡」(8:13)を行ったことが記されます。そのあと14章と15章でそれぞれ一回、パウロとバルナバが「しるしと不思議な業」をおこなったことが描かれて、そこから先にはこのフレーズはもう登場しなくなります。ちょうどエルサレムで開かれた使徒会議で、異邦人と割礼をめぐる問題に決着がついた時点で、このフレーズは用を終えたということができるのかもしれません。福音が異邦人世界に広まり、定着していくまでには、御言葉による宣教とともに、「しるしと不思議な業」が果たした役割は大きかったのかもしれません。

 ただ、使徒言行録の中で「しるしと不思議な業」を行った人物として描かれているのは、限られた人たちでした。その点も心に留めなければなりません。使徒言行録の登場人物のすべてが「しるしと不思議な業」を行う賜物を持っていたというわけではありません。パウロがコリントの信徒に宛てた手紙の中に書いているように(1コリント12章)、皆が同じ賜物を持っているのではなく、一人一人が異なっているからこそ、教会は一つの体のように機能することができるのです。

 最後にもう一つ、きょうの個所は「一人残らずいやしてもらった」という言葉で終わっています。この時は確かに「しるしと不思議な業」によってそれが実現しました。しかし、「いやし」というのは必ずしも奇跡によって実現するものとは限りません。奇跡に対する関心が失われると同時に、人々が癒されることに対しても関心を失うようなことがあってはなりません。教会は御言葉による福音の宣教とともに、人々の悩みや苦しみに対しても具体的にかかわる務めがあります。愛の行いと御言葉の宣教は決して切り離すことはできないのです。