2012年7月12日(木)ステファノの活躍(使徒6:8-15)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人間関係を損ねる三つの話題と言えば、昔から政治と宗教と野球の話は人前ではしない方がよい、と言われています。もっとも、同じ立場の相手なら、これほど盛り上がる話題もないだろうと思います。しかし、政治的立場の違う相手、宗教が異なる相手、ファンとするチームが違う相手となると、話は平行線のまま、どんどん白熱してしまいます。口で相手を論駁できなくなくなると、手も足も出てきそうな雰囲気にさえなってしまいます。
 そんなことで暴力沙汰にでも発展すれば、なんと大人げないという話になるのでしょうが、しかし、自分の信念と生活とに深くかかわる話題であればこそ、妥協するわけにはいかないというのも事実です。

 きょう取り上げようとしている個所には、真理をめぐる対立が、再びキリストを信じる弟子の逮捕にまで発展する事件が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 6章8節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と”霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

 前回の学びでは、新しい役割を与えられた七人の人たちが選びだされた話を学びました。これらの七人は、日々の分配が公平になされるために立てられた奉仕者ですが、結果として、使徒たちが御言葉の宣教に専念できるように、という目的もありました。

 きょう取り上げるのは、その七人のうちの一人、ステファノの話です。後で学ぶことになりますが、ステファノはキリスト教会最初の殉教者となる人物です。ステファノは英語ではスティーヴンと呼ばれています。スティーヴンという名前はよく耳にする名前だと思いますが、このステファノに由来した名前です。

 使徒言行録はこのステファノを取り上げて「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」と紹介します。ちょっと不思議な気がするかもしれませんが、この人が選ばれたのは、日々の分配が公平になされるためでした。しかし、ステファノは食べ物や日用品の分配だけを行っていたのかというとそうではありません。すばらしい不思議な業としるしを行っていたとあります。「不思議な業としるし」というのは、今までの個所では、もっぱら使徒たちが行っていたものでした(使徒2:43、5:12)。しかし、その使徒たちが行っていた業を今やステファノも行うようになったのです。
 そればかりか、あとでも出てくるように、聖書の教えを解き明かす賜物さえも持っていました。これは、ステファノと同じ時に選ばれたフィリポもそうでした(使徒8:34-65)。そうなると、選ばれた七人はほとんど使徒たちと同じような働きをしていたことになります。

 さて、このステファノを相手に議論が持ち上がります。キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がったとあります。
 戦争でローマの捕虜となったユダヤ人で、奴隷から解放された者たちがローマのユダヤ人居住区には大勢いましたが、そうした解放されたユダヤ人奴隷で、今は自由人となっている者たちが、エルサレムに戻って自分たちの会堂を持っていたのでしょう。ステファノを相手に議論を挑んできたのは、キレネとアレクサンドリア出身の者たちでした、キレネもアレクサンドリアも北アフリカの地中海側にある都市で、ここには古くからユダヤ人たちが住んでいました。またキリキア州とアジア州は、地中海を挟んで反対側になりますが、キリキア州のタルソスはパウロの出身地でもありました(使徒21:39、22:3)。いずれにしても、ステファノと議論を戦わせたユダヤ人というのは、いずれも、パレスチナ生まれのパレスチナ育ちのユダヤ人ではありませんでした。ステファノはギリシア語を話すユダヤ人でしたから、そうした人たちとの議論は、当然ギリシア語でなされたことでしょう。

 彼らがどんなことを巡って議論したのかは記されていませんが、彼らが立てた偽証人の証言から、その一端を推測できるように思います。偽証人たちはこう証言しています。

 「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」

 思いだしてみると、この偽証人たちの言っていることは、イエス・キリストを裁いた最高法院での偽証人の証言にも似ています。マルコによる福音書14章58節にはこう記されています。

 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」

 この二つの証言に共通していることは、神殿をめぐる議論です。彼らの証言はいずれも偽証であると聖書には記されていますが、しかし、一面の真理を伝えているように思います。イエス・キリストも(ヨハネ2:19参照)、そして、おそらくはステファノも、神殿とメシアをテーマとした説教をしたのでしょう。そうしたメシアと神殿との関係を巡るキリスト教の議論の一端を、わたしたちはヘブライ人への手紙の中に見ることができます。
 ただ、残念なことに、ステファノを訴えた者たちは、その話の真意を理解することができなかったということでしょう。彼らにとってステファノの話は、神殿とモーセの律法を侮辱し、ひいては神を冒涜する教えだと受けとめられたのです。

 少し推測がすぎると言われるかもしれませんが、キリストの十字架上での贖いの死と、神殿での動物犠牲の不必要性は、キリスト教会では早くからテーマとして意識されていたのではないかと思います。

 このユダヤ最高法院でのステファノの姿を、使徒言行録は「その顔はさながら天使の顔のように見えた」と結んでいます。天使の顔を見たことがないわたしには、この表現を深く理解することはできませんが、しかし、確信に満ちて輝くような顔であっただろうと想像します。聖霊は信仰の確信を人の心にお与えくださり、恐れたり憂えたりすることのない、輝く顔をお与えくださるのです。