2012年10月4日(木) 異邦人にも確かに救いが(使徒10:44-11:18)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どんな劇にもクライマックスとなる場面があります。今まで学んできたコルネリウスとペトロの話は、きょうの場面をもってクライマックスに達します。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 10章44節〜11章18節までです。時間の関係で、11章5節から14節は割愛いたします。

 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。
 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。
 (続いて11章15節以下)「…わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

 前回はコルネリウスの家を訪ねたペトロが、そこに集まった異邦人たちに、福音の言葉を語り聞かせる場面を学びました。そのペトロの説教も、突然の出来事に中断してしまいます。その出来事とは、ペトロの話に聞き入っていたコルネリウスをはじめ、異邦人たち一同の上に突如として聖霊が降るという出来事でした。

 聖霊がイエス・キリストを信じる者の上に降るという出来事を使徒言行録が記すのは、ペンテコステの日の出来事も含めて、これで三度目です。既に使徒言行録8章には、サマリアの人たちが神の言葉を受け入れ、洗礼を受けるようになったとき、ペトロとヨハネが彼らの上に手を置いて祈ると、聖霊がサマリア人たちの上に降ったことが記されています。ユダヤ人以外の者にも聖霊が与えられる、という意味では、今回の出来事は二番煎じのように思われるかもしれません。しかし、コルネリウスたちの身の上に起こった出来事は、四つの点で特筆すべき要素があります。

 まず今回の出来事は、ペンテコステの時と同じように突然の出来事でした。確かに弟子たちの上に聖霊が降ることは約束されていたとはいえ、それがペンテコステの日に起こる、ということは予期しない出来事でした。今回もペトロの話がまだ途中であるにもかかわらず、コルネリウスたちの上に聖霊が降ってきます。それに対して、サマリア人の上に聖霊が降ったのは、ペトロやヨハネが意図して願ったことでした。突然の出来事という意味では、ペンテコステ以来の出来事ですし、また、ペンテコステの時の聖霊降臨に似ているということができます。

 さらに、聖霊を受けるに至る順序は、今回の場合、聖霊の降臨が先で、洗礼がそれに続きます。サマリア人の時はそれとは逆でした。彼らが神の御言葉を受け入れ、洗礼を受けたので、ペトロとヨハネが遣わされ、彼らに聖霊を受けるようにと勧め、祈ったのでした。使徒言行録全体を見ても、洗礼に先だって聖霊が降るのはここだけです。そういう意味で特徴のある出来事でした。

 三番目に特筆すべきことは、聖霊を受けた彼らが、「異言」を語り出した、ということです。「異言」という言葉が使徒言行録に登場するのはここが初めてです。もちろん、ペンテコステの日に聖霊を受けた弟子たちは「異なる言葉(舌)」で語り始めましたが、その意味は外国の言葉を語ったということでした。
 しかし、ここでは「異なる言葉で語った」とは記されずに、単に「(複数の)言葉で語った」あるいは「(複数の)舌で語った」と記されています。ただ、その意味するところはコリントの信徒への手紙一の12章以下にたびたび登場する「異言」と同じように、人間には理解できない言語で語ったということでしょう。使徒言行録で「異言」という言葉が出てくるのは、ここと19章6節だけですから、異言という珍しい出来事が起こったその最初ということができます。

 そして、四つ目の特筆すべきことは、この出来事を通して、異邦人もまた救いにあずかるべき神の民の一員であることが明らかにされた、ということです。
 もちろん、ペトロはあの不思議な幻を見て以来、ずっと異邦人の救いについて思いめぐらせていましたし、コルネリウスたちを前に福音を語り始めた時には、すでに、異邦人も福音にあずかる資格があることを確信していました。ですから、聖霊が降るというしるしは、ペトロのためというよりは、ペトロと同行したユダヤ人キリスト者たちと、異邦人であるコルネリウスたちを確信させるためであったということができます。ペトロは説教の中でイエス・キリストについて「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」と語る預言者の証しを伝えましたが、今回の出来事は、そのことの正しさを力強く確信させる出来事です。

 さて、エルサレムに帰ったペトロは、これらの出来事のために、思わぬ非難を受けます。一体これらの非難を浴びせた人たちは、以前、サマリア人が洗礼を受け、聖霊をいただいたことをどう受け止めていたのでしょうか。確かにサマリア人とユダヤ人は犬猿の仲と言われてはいましたが、サマリア人は礼拝の場所をエルサレムではなくゲリジム山だと主張している点は違うものの、モーセの律法を守って割礼は受けていました。そういう意味では、割礼も受けず、まことの神も知らない異邦人というのとは違っているかもしれません。しかし、サマリア人に続いて、すでにエチオピアの宦官も福音を信じて洗礼を受けていたのですから、異邦人に対する道は既に開かれていることは分かっていたはずです。それとも、救いにあずかる権利が異邦人にもあることと、その異邦人と食事を共に過ごすこととは、別の次元の問題と考えていたのでしょうか。あるいは福音を受け入れた異邦人は、洗礼だけでは神の民となる資格は与えられず、割礼を受けるまでは汚れていると考えていたのでしょうか。おそらくそう考えていたのでしょう。
 この割礼の問題が最終的な決着を見るのは、まだ先のことになりますが、しかし、神は既に無割礼の異邦人に聖霊を与えることで、既にこの問題に明確な答えを与えていたのです。神が清いと宣言した者を、清くないと人が言ってはならないのです