2012年11月22日(木)イエスこそ約束された救い主(使徒13:26-41)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本での伝道は難しい、という言葉をしばしば耳にします。実際、この国での伝道に携わった経験のある人なら、誰もがそう実感しているところだと思います。しかし、世界中を見渡して、伝道が簡単な国や地域があるのかというと、そうでもないように思います。あえて言えば、前提が共通していれば、それだけ理解も早いということは言えるかもしれません。けれども、前提が共通していても、キリスト教を受け入れるかどうかは、また別の問題のようにも思われます。使徒言行録の中で、もっともキリスト教に対して抵抗しているのは、ペトロやパウロと同じユダヤ人たちだからです。しかし、初代のキリスト者たちは、それでも救いの御言葉を大胆に語り続けました。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 13章26節〜41節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第2編にも、
 『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』
と書いてあるとおりです。また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、
 『わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』
と言っておられます。ですから、ほかの個所にも、
 『あなたは、あなたの聖なる者を
  朽ち果てるままにしてはおかれない』
と言われています。ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。
 『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。
  わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。
  人が詳しく説明しても、
  お前たちにはとうてい信じられない事を。』」

 きょうはピシディアのアンティオキアでなされたパウロの説教の後半から学びます。前回学んだ個所では、イスラエルの選びからメシア誕生に至るまでの救いの歴史が、パウロによって簡潔に述べられていました。つまり、約束された救いは、ダビデの末裔である主イエスによって確かに実現した、という内容でした。

 ところが、この神のもとから送られてきたイエスを、民の指導者たちは拒んで、ピラトの手を借りて十字架につけて死刑にしてしまったことをパウロは語ります。しかし、パウロは単にイエスの身に起こった出来事を事実として時間を追って述べているだけではありません。

 パウロはエルサレムの住民や民の指導者たちが、イエスを認めなかったことと並んで、彼らが安息日ごとに読まれてきた預言の言葉を理解しなかったことをも指摘しています。つまり、彼らがイエスを認めなかったのは、預言者の言葉を認めなかったことと無関係ではないのです。預言者の言葉に注意深く聴いていれば、イエスをも神から遣わされた救い主として認めることができたはずなのです。この罪の大きさは見過ごすことはできません。遣わされた救い主を拒む前に、すでに神の御言葉を聞き入れようとしない罪が先行しているのです。
 しかも、皮肉なことに、彼らはイエスを拒み、預言の言葉を受け入れなかったことによって、聖書に言われてきたことを実現させてしまったのです。

 こうして神の御言葉に聞かないという自分たちの罪深さによって、民の指導者たちは罪なきお方を十字架の死にまで追いやるという結果をもたらしてしまいました。しかし、神はこのイエスを死者の中から復活させて、救いの約束を確かなものとしてくださったのです。キリストの復活は、神の救いの約束が人間の罪によってくじかれてしまうようなものではないことを力強く証ししています。

 考えてもみれば、十字架につけられた者を、神がお遣わしになった救い主であると主張することは、誰が聞いても馬鹿げていると思われます。ユダヤ人たちの律法によれば、木にかけられて殺された者は、呪われた者でしたから、呪われた者が救い主であるとはとうてい考えられませんでした。また、異邦人にとってさえも、十字架は大罪を犯した者に与えられる罰でしたから、そのような者が神から遣わされた者であるとは、信じがたいことであるのは当然です。

 しかし、神は十字架にかけられた者をあえて救い主として選んだのではなく、むしろ神が救い主としてお遣わしになった者を、イスラエルの民は拒んで十字架につけてしまったのです。これが事柄の順序です。

 ところで、このパウロの説教には、イエスの十字架の死の意味、そのものについては語られていません。つまり、その死が罪の身代わりの死であったこと、そして、その死が自分の罪の身代わりであったことを信じる者には救いがもたらされる、というキリスト教の中心的な教えも語られてはいません。

 もちろん、それだからと言って、この時、まだそうした教えが明確ではなかったとは断定することはできません。むしろ、8章で既に学んだように、あのときエチオピアの宦官が朗読していた聖書の個所、苦難の僕についてのイザヤ書の言葉が、イエス・キリストを預言したものであるという理解は、エルサレム教会の出身であったフィリポによって明確に示されていました。このことこそ、イエスの十字架での死の意味を、初代教会の人々がどう考えていたのかをはっきりと示す証拠です。

 ですから、パウロももちろん十字架の意味を知らないはずはありません。しかし、この説教の中では、イスラエルが拒んだ救い主を、神が死者の中から甦らせ、この方によって罪の赦しが告げ知らされている救いの今を、パウロは聴衆に告げているのです。そしてパウロは、聞く者たちにこう説得しています。

 「あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」

 キリストを信じる信仰を通して、人は義とされるのです。