2013年1月3日(木)異邦人も恵みによって(使徒15:6-21)

 新しい年を迎えていかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今年もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会会議と聞くと大変仰々しいイメージを抱かれる方もいらっしゃるかもしれません。確かに、ある国や地方全体の教会会議となると、大変大きな人数の集まりになります。しかし、一つの小さな教会の会議となれば、三人ほどの人数です。
 ただ、大切なことは、有能な一人の意見で物事を決めてしまうのではなくて、会議の中に働いてくださる聖霊に信頼して、会議全体が決めたことを神の御心と信じて、教会がその決定に従うことです。
 今回も、エルサレムに集まった使徒たちや長老たちによって開かれた会議の様子から学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 15章6節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
 すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。
 『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』
 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

 前回はこの会議が開かれるきっかけから学びました。それは、パウロたちの宣教旅行を通して生れた異邦人キリスト者たちが、割礼を受けないままでいたことから生れた論争でした。ユダヤ教の長い伝統からすれば、神との契約に入るしるしは、割礼を受けることでした。ですから、当然、異邦人が神の契約の民とされるためには、今までと同じように割礼を受けることが必要であると、ある人たちは考えたのでした。ユダヤ人キリスト者の中には少なからない人たちがこの考えに同調していたようです。

 さて、この問題を協議するために、教会はどんな知恵を用いたでしょうか。使徒言行録は、「使徒たちと長老たちが集まった」と記しています。だれか有能なリーダーに問題を任せてしまう、ということはしませんでした。何人の人たちがこの問題のために集まったのかは、具体的には記されていませんが、少なくとも、使徒と長老という二つの異なる役割の人たちが、それぞれ複数集められたということは確かです。使徒たちだけがこの問題を話し合ったわけではありません。長老たちだけが集められたのでもありません。使徒と長老が共に集まって協議の場を持ちました。

 会議に集まった使徒たちや長老たちはこの問題について「議論を重ねた」とあります。この場に集まった人たちは最初からどちらかの意見に偏った人たちだけが集められたわけではありません。当然、発端となった意見の対立は、会議の場での話し合いに、そのまま反映されました。問題は一筋縄では解決できそうもないほどに、多くの議論を重ねる必要がありました。なぜなら、前回の学びでも見たとおり、異邦人にも割礼が必要であるとする意見にももっともな論点があったからです。会議は対立する意見に注意深く耳を傾け、どうすることが神の御心であるのかを真剣に探り求めました。

 使徒言行録には会議の様子がこと細かく記録されてはいませんが、議論を結論へと導くきっかけを作ったペトロの発言がまず詳しく記されています。

 ペトロは自分自身が異邦人コルネリウスの家で体験したことに基づいて語ります。このコルネリウスとその家に集う人たちが救いに至った様子については、既に10章で学んだ通りです。
 ペトロは、異邦人が救われていることの確かな証拠として、神が異邦人にも聖霊を注いでくださった、という事実を挙げています。ペンテコステの日に聖霊を注がれたのは、ユダヤ人の弟子たちだけでしたが、しかし、今や、ユダヤ人という民族の枠を超えて、異邦人にも聖霊が注がれるという事実を、ペトロは目撃したのです。
 では一体、何を根拠に、神は異邦人にも聖霊を注ぎ、異邦人をも救いに加えてくださったのでしょうか。ペトロはこう結論づけます。

 「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(使徒15:11)

 ペトロは異邦人の救いの根拠を、主イエスのまったくの恵みに置いています。それは、ユダヤ人が恵みによって救われるのとまったく同じである、とペトロは主張しているのです。イエスの恵みによってのみ救われるのであれば、割礼は救いの根拠でもなければ理由でもありません。ユダヤ人にとってさえ、割礼は救いの根拠ではないのです。

 そのペトロの発言を受けて、バルナバとパウロは自分たちが目撃した異邦人たちの救いについて証言しています。異邦人たちの間に神が働いてくださり、異邦人たちが救いに加えられた実例については、宣教旅行から戻ったばかりのバルナバとパウロ以上に語れる人はいません。
 しかし、会議は実例の多さで、この問題について結論を出したのではありませんでした。

 最後に発言したのは、主イエスの兄弟であるヤコブでした。確かにガラテヤの信徒への手紙の中にも記されているとおり(ガラテヤ2:9)、ヤコブはエルサレム教会の柱と目される主だった人物の一人でした。しかし、使徒言行録が記そうとしていることは、この会議は結局重鎮の鶴の一声で決着がついてしまったということではありません。ヤコブの役割は、ペトロが語り、パウロとバルナバが証言したことが、果たして聖書の教えと一致しているか、という検証でした。
 ヤコブはアモス書9章11節以下を引用して、このことが神の御心から出たものであることを会議に集った人々全体に伝えたのでした。
 この会議では多くの議論に真摯に耳が傾けられ、目の前で起こっている現実を直視し、最後には神の御言葉である聖書によって、結論の正しさが検証されたのでした。