2013年3月14日(木)知られざる神(使徒17:22-34)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人と話をするときに、共通の話題や関心をいち早く見つけ出すことが出来れば、コミュニケーションは取りやすくなります。これはキリスト教を伝える上でも大切なポイントです。キリスト教の教えを順序どおりに理路整然と話したからといって、相手の心にそれを共有できる場がなければ、話は頭の上を素通りしていくばかりです。
 使徒言行録の中に記されたパウロの説教は、パウロ自身の書いた手紙から受ける印象とかなり異なっています。しかし、考えても見れば、話す相手の関心が異なれば、アプローチの仕方も内容も違ってくるのは当然です。きょう取り上げる個所にもパウロの説教が記されていますが、それは聖書について全く知らない聴衆への語りかけです。この聴衆に対して、どんな切り口でキリスト教を伝えるのか見ていきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 17章22節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

 前回学んだ個所では、アテネに到着したパウロが、ユダヤ人を始めとして、ギリシアの哲学者たちにまで福音を語って議論する様子を取り上げました。知的な好奇心の強いアテネの人々は、このパウロをアレオパゴスに連れていき、皆の前で詳しく話すようにと勧めます。
 アレオパゴスというのは「軍神アレスの丘」のことで、広場から南東に向かってパルテノン神殿を見上げる丘の途中、右手方向にあります。ここはかつてアテネの最高議会に当たる評議会が開かれた場所でした。実際パウロが連れて行かれたのは、この丘の中腹にあるアレスの丘ではなく、広場の近くにあった評議所ではなかったかという説もあります。いずれにしても、パウロにとっては福音を弁明する絶好の機会です。

 パウロはこのアレオパゴスで、開口一番、アテネの人々を信仰のあつい人たちであると評します。「信仰があつい」と訳されている言葉は、いい意味では「信仰心があつく敬虔な」という意味ですが、悪い意味では「迷信を信じやすい」という皮肉的な言葉です。アテネにあるおびただしい数の偶像を見て憤ったパウロですから、決して良い意味でこの言葉を使っているとは思えません。しかし、聞く人によっては良い意味でも取れるこの言葉を、パウロの演説を聞いていたアテネの人たちは、おそらく良い意味に理解したにちがいありません。パウロ自身もこの言葉が持つ二重の意味を知っていて、あえてこの言葉を選んだのでしょう。

 パウロはアテネの人たちが信仰にあついと思った理由をこう述べます。それは、自分たちが知らない神にまで祭壇を作っているからです。パウロはアテネの人々がおびただしい神々に祭壇を築いていることには憤慨した思いをいだきましたが、しかし、そうであっても神を求める心については、そのすべてを否定的に捉えているわけではありません。
 しかし、こういうアプローチの仕方は、諸刃の剣の危険があります。確かに、知られざる神について、相手の土俵に立って語るという点では、聴衆の関心を自然と向けさせることができます。けれども、話の受け取られ方によっては、キリスト教の神を、すでに知られている他の神々と同列のように思わせてしまう危険もあります。

 そこで、パウロは「知られざる神」という話題でアテネの人たちの興味と関心をひきつけますが、すでに知られている他の神々との違いを際だたせるように話を組み立てています。「神は唯一の神であって、他には神はいない」という言い方こそしませんが、万物の創造者であり、命とそれに必要な一切のものを与えるお方として、誰からも支えられたり、仕えられたりする必要がないお方として、キリスト教の神を紹介します。これは創造者であり万物を主宰する唯一の神というに等しい内容です。
 その神はご自分を見出すことを人に望んでおられ、神自身決して人から姿を隠して遠くにおられるわけではないことをパウロは強調します。

 しかし、それにもかかわらず、現実には人は神を見出すことができない無知の中におり、神に手によって仕えようとする愚かさを繰り返しています。その無知をパウロは指摘すると共に、しかし、その無知な時代を大目に見てくださっている神の寛大さについても語ります。そうであればこそ、神の裁きの時が到来する前に、悔い改めが求められているのです。

 さて、ここまでのパウロの話は、「知られざる神」を受け入れているアテネの人々にもそれほど大きな反感を買うこともなかったことでしょう。しかし、パウロはそこで話を止めてしまうことはありませんでした。自然や歴史やこの世の人たちの考えから神について語ることができる内容には限界があるからです。
 パウロはこの演説を締めくくるにあたって、神による裁きの日について、また一人の審判者として立てられたお方の存在について、このお方が死者の中から復活されたことなどを語ります。これらの教えは神の特別な啓示によって人間に示された事がらです。人間には愚かと思われる内容であったとしても、パウロは神が啓示して下さったことを大胆に語ります。

 パウロの話は、人間的な評価からすれば、「ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』」と思う内容であったかもしれません。しかし、それにもかかわらず、パウロが語る啓示の言葉に心を開かれる人々が起こされました。キリスト教の伝道にとって大切なことは、大勢の賛同を得ることではなく、知られざる神の言葉に心を開かれる人々を見出すことなのです。