2013年3月21日(木)恐れるな、語り続けよ(使徒18:1-11)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どの時代でもそうだと思いますが、新しい土地へ行ってキリスト教を伝道するというのは、そんなに簡単なことではありません。今だに因習が強く残っている場所ではキリスト教に対する反発も大きなものがあります。しかし、習俗から解放された都会には世俗化とポストモダンの波が押し寄せていて、宗教一般に対して、価値を見いださない傾向が強くなっています。
 しかし、どんな困難があったとしても、世の終わりまで、教会が福音を語り続ける使命から解放されることはありません。きょう取り上げる個所でも、福音宣教を諦めることのないパウロの姿と、そのパウロを励まし支える神の言葉が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 18章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。
 シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは1年6か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。

 先週は学問の町アテネで行われたパウロによるキリスト教の弁明を学びました。このあとパウロはマケドニア州を出て、アカイア州のコリントにやってきます。きょうはそのコリントでの出来事を取り上げます。

 コリントは港湾都市で商業の栄えた町でした。宗教的にも様々な祭儀が入り込み、コリントのアクロポリスにはアフロディテを祭る神殿がそそり立っていました。このアフロディテというのは、愛と美と性を司るギリシア神話の女神で、神殿には多い時に千人近い神殿娼婦がいたと言われています。「コリント風に生きる」という言葉が生れるほど、この町では、みだらな生き方をする者たちが多かったようです。
 パウロがここにやってきたのは、もちろん、この町がアカイア州の政治的中心地であったことと、大都市であるがゆえに多くのユダヤ人たちが住んでいたといういこともあったからです。

 パウロが最初に身を寄せたのは、ローマからやってきたアキラとプリスキラ夫妻の家でした。この夫妻の名前は使徒言行録の中に出てくるばかりか(使徒18:18、18:26)、パウロの書簡にもたびたび登場します(ローマ16:3、1コリント16:19、2テモテ4:19)。

 この夫妻がローマからコリントにやってきた理由は、皇帝クラウディウス帝によって出されたローマからのユダヤ人追放令によるものでした。歴史家スエトニウスによれば、紀元49年ごろ、クレストスにそそのかされたユダヤ人たちが立て続けに騒ぎを起こしたからである、と報告されています。このスエトニウスが報告する「クレストス」なる人物が何者であるのかについては、大概の学者たちは、「キリスト」のことであると解釈しています。つまり、ローマに伝搬されたキリスト教によって、ローマに治安上の問題がおこっていると判断した皇帝が、ユダヤ人たちを追放したというのです。

 アキラとプリスキラは、おそらくローマで既にキリスト教に改宗していたと思われますが、その職業はテント造りであったことから、パウロは彼らの家に滞在してテント造りを手伝いながら、安息日にはユダヤ人の会堂で福音を宣べ伝えていたようです。
 この点については、パウロ自身もテサロニケの信徒へ宛てた手紙の中で、自ら働きながら伝道をしたことを書きしるしています(1テサロニケ2:9)。しかし、既に6 章で学んだように、使徒たちは御言葉を語ることに専念すべきであるという理念からすれば、自給自足の伝道というのは特殊な状況下でだけ行われるものと考えられます。実際、パウロのテント造りも、シラスとテモテがアテネからやって来るまでの一時的なことで、それ以降は御言葉を語ることに専念しています。

 少し話は横道にそれてしまいますが、テモテがパウロと再び合流する記事は、テサロニケの信徒への手紙一の3章にも出てきます。両者の記事は細かい点で違ってはいますが、おそらく、この使徒言行録に記されるシラスとテモテがアテネからやってきた話とテサロニケの信徒への手紙に記されていることは、同じ事柄に言及しているものと思われます。テサロニケの信徒への手紙3章を読む限りでは、テモテの帰りを待つパウロは、テサロニケの信徒たちへの心配と、またコリントで直面している困難とを抱えていたことがうかがえます。パウロ自身の言葉によれば、テモテがやってくる前のパウロはコリントで「あらゆる困難と苦難に直面」していたようです(1テサロニケ3:7)。

 さて、他の土地でもそうでしたが、最初はユダヤ人やユダヤ教の会堂に集うギリシア人を相手として、福音を語ったパウロでした。そして、他の土地でもそうでしたが、その成果は決して大きなものではありませんでした。むしろ、大きな反発を招き、パウロの足を異邦人の方へと向かわせる結果となりました。

 コリントにおけるパウロの伝道対象は、この時点から異邦人へと向かうわけですが、ユダヤ人伝道が全くの失敗に終わったということではなかったようです。会堂長のクリスポのように、一家をあげて主を信じるようになった人もいました。しかし、何よりもコリントでの伝道も、異邦人の間に多くのの実を結んだようです。ただし、コリントの信徒への手紙一の1章14節の記述によれば、パウロ自身が洗礼を授けたのは、僅かにクリスポとガイオの二家族だけだったようです。このガイオというのは、後にパウロが身を寄せたティティオ・ユストと同一人物であると考えられています。

 こうしてパウロはコリントでは1年6ヶ月に及ぶ伝道活動を行いましたが、その伝道を支えたのは、主ご自身から聞かされた次の言葉でした。

 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

 そうです。私たちには、誰が福音を受け入れるか、初めから分かっている訳ではありません。しかし、はっきりと言えることは、この町にも主を信じる神の民が必ずいるという確信です。この確信が今でも教会の福音宣教を支えています。