2013年8月8日(木)思わぬ事態の展開(使徒22:22-29)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 歴史の流れを見ていると、正義が必ず勝つという確かな法則は、一見存在しないように思われます。力の強い者が歴史の流れを変え、狡猾な者が歴史を支配していると感じてしまうことがしばしばです。誰の目にも明らかに正義だけが実現しているとは中々思えないのが現実です。
 しかし、人間の一生という短いスパンで考えればそう見えることも、時として、思わない事態の展開で真実が明らかにされ、正義が実現するということもあります。そういうことはたまにしか起こらないとしても、それでも、いつかは正義と公平が実現し、平和な世界がやってくることをわたしたちに暗示しているように思われます。

 さて、異邦人への伝道に召されたパウロは、自分にとっては同胞であるはずのユダヤ人から、命を狙われる存在となります。予想されたこととはいえ、パウロにとっては神から与えられた自分の使命が、今まさに阻まれようとしています。現在でこそ使徒言行録の記述からその後の展開を知ることができますが、今は敢えてパウロと同じ境遇に立って使徒言行録を読み進めていきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 22章22節〜29節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだったので、千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。千人隊長が、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言うと、パウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った。そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。

 前回まで三度にわたって、ユダヤ人に対するパウロの弁明の言葉を取り上げてきました。熱心なユダヤ教徒であり、熱心なキリスト教の迫害者であったパウロが、突如現れた復活のキリストとの出会いによって、キリスト教を伝える者、とりわけ異邦人への伝道を行うものと召された次第をパウロは語りました。
 前回取り上げた個所で、パウロは自分に異邦人伝道の使命を与えた主の言葉を力強く語りました。

 「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(使徒22:21)

 パウロの弁明にとっては、まさにクライマックスともなるべき主からのこの言葉が、パウロを捕らえて殺そうとしていたユダヤ人にとっては、怒りを爆発させる言葉となったのです。聞いていた群衆は我慢の限界に達し、もはやこれ以上パウロの弁明に耳を傾けることができなくなってこう叫びました。

 「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」

 いったい何がこうも群衆を激怒させたのでしょうか。確かにもともと騒動を起こした群衆でしたから、聞く耳など最初から持っていなかったといってもよいかもしれません。しかし、そうであったとしても一度は静まり返ってパウロに耳を傾けたのですから(使徒21:40)、まったく聞く耳をもっていなかったというわけではないでしょう。いったいパウロの弁明のどの部分が、彼らの逆鱗にふれたのでしょうか。

 そもそもパウロについて、ユダヤ人たちの間でうわさになっていたことはこうでした。パウロは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」と言って、モーセから離れるように教えている、というのです(使徒21:21)。そのことはエルサレム教会の人々の耳にまで聞こえ、まさにエルサレムにやってくるパウロの身を彼らが心配する事態にまで至っていました。

 エルサレム教会の人々の努力にも関わらず、パウロに貼られた「律法を侮辱し、律法に反することを宣伝している悪人」というレッテルは消すことができませんでした。むしろ、パウロがそういう悪人であるという偏見でパウロの弁明を聞いている群衆にとって、パウロの弁明は、そのような律法違反の振舞いを、神ご自身からの啓示であるかのように強弁していると聞こえたのでしょう。

 事態は収拾に向かうどころか、うっかりパウロに弁明の機会を与えてしまった千人隊長にとっては、とんだ計算違いの結果でした。しかし、それでも、千人隊長は安易に事態を収束させようとはしません。臭いものに蓋ではなく、なぜこのような対立がパウロとユダヤの群衆との間に起こっているのか、その真相を知ろうと、パウロをさらに取り調べようとします。
 考えてもみれば、いちユダヤ人にすぎない男が、同じユダヤ人からその宗教的習慣をめぐって訴えられているのですから、厄介なことにこれ以上首を突っ込まないで、群衆の満足に任せてしまうという選択肢も千人隊長にはあったでしょう。しかし、この千人隊長の好奇心なのか、あるいは正義と公平への強い思いからなのか、パウロをさらに取り調べようとします。この千人隊長の態度が、思いもかけず、事態を良い方向へと向かわせます。

 ここで、千人隊長の名誉のために言いますが、現代の人権思想からみれば、拷問によって真相を明らかにするということは、明らかに人権に反する行為です。しかし、鞭打ってほんとうのことを自白させるということは、この時代には必ずしも違法なことではありませんでした。ただ、ローマ法においては、ローマの市民権をもつ者には、いかなるものであれ、裁判にかけずに鞭打つことは赦されることではありませんでした。

 ここでさらに事態の好転が訪れます。以前フィリピの町を伝道した時もそうでしたが、パウロは自分がれっきとした、生まれながらのローマ市民であることを、自分を鞭打とうとする役人に証します。パウロがほんとうに生まれながらにローマ帝国の市民権をもっていたのかどうか、ということは、今となってはパウロの自己証言からしか分かりません。しかし、もしそれが嘘であるとすれば、いずれは分かってしまうことですから、そんな危険をパウロが敢えてパウロが冒すとは思えません。千人隊長が疑わなかったことを敢えて疑う必要もないでしょう。

 さて、きょうの個所からどのようなことを学ぶことができるでしょうか。神は思いもかけない方法でパウロを暴徒化した群衆から守ってくださったということは一つ言えるでしょう。しかも、神はその僕を守るためにこの世の法律さえも用いてくださるのです。