2013年11月7日(木)マルタ島での出来事(使徒28:1-10)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 トルコの軍艦エルトゥールル号の遭難事故と日本人による救援活動は、日本とトルコの友好の礎として、事件から一世紀以上経った今も、長く語り継がれています。海難に遭って助けを必要としている人に、できる限りの救援の手を差し伸べるのは、人間として、今も昔も当然のことです。
 きょう取り上げる個所には、パウロたちが漂着したマルタ島で、島の人々が遭難者たちに示した親切な行いがまず描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 28章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った。さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、3日間、手厚くもてなしてくれた。ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。

 パウロたちがクレタ島の「良い港」を出港してから14日間、距離にしておよそ930キロ、嵐の中を漂流してやっとたどり着いたのは、シチリア島の南に浮かぶ小島、マルタ島でした。日本で言えば屋久島の半分ぐらいの面積の島です。

 使徒言行録はこの島の住民を「バルバロイ」という単語で表現しています。このギリシア語の単語は、「未開人」とか「野蛮人」を指す英語のbarbarianの語源に当たる単語ですが、ギリシア語ではない言語を話す人たちというのが元来の意味です。使徒言行録がこの人たちのことを「バルバロイ」と呼んだのは、軽蔑的な意味ではなく、ギリシア語を話さない人たちという意味でしょう。この島は古くはフェニキア人の支配下にありましたが、ローマ帝国が支配する前は、北アフリカにあるカルタゴの支配下にありました。カルタゴ自体がフェニキア人によって立てられた都市国家で、使われていた言語もフェニキア語でしたから、このマルタ島がフェニキア人から受けた影響は大きかっただろうと想像されます。

 さて、島の住民たちは、ずぶ濡れになって、命からがら上陸してきたパウロたちに大変な親切を示します。季節は秋から冬に向かう時で、冷たい雨風の中を漂流してきた者たちのために、焚き火をたいて暖をとらせ、彼らをもてなします。使徒言行録は彼らが示した態度を「普通ではない親切」「大変な親切」と表現します。期待される以上の親切を表してくれたのでしょう。

 ところが、こうして迎え入れられたパウロでしたが、島の住民のパウロに対する評価は、二転三転します。最初は同じ人間として、助けを必要とする者に対して示された親切でしたが、パウロの手にかみついた蛇を見て、島民たちのパウロに対する評価は一転してしまいます。島民たちの考えによれば、パウロは海難を逃れることができても、蛇にかまれて死ななければならないほどの殺人犯だと断定されてしまいます。パウロが蛇にかまれたことは、彼らの信じる正義の女神の思し召しであると思われたからです。
 けれども、パウロは島民たちの予想を裏切って何の害悪も受けません。体が腫れることもなければ、急に倒れてしまうこともありません。そうなると、今度はまたしてもパウロに対する評価が変わってしまいます。今度は殺人犯の男から一転して「神」に祭り上げられてしまいます。

 自分が神に祭り上げられることは、パウロの本意ではなかったことは明らかです。既に最初の伝道旅行の際に、リストラで自分がヘルメスの化身とされたとき、パウロはそれを強く否定しました。ここでは、自分が神格化されることへのパウロの反応は記されていませんが、敢えて記すほどのこともないということでしょう。あるいは、言葉が通じない島の住民たちの会話の内容を、パウロも使徒言行録の著者も後で知ったのかもしれません。
 いずれにしても、パウロの潔白さは思いも寄らない方法で、島民たちの心に刻まれることとなったのです。

 こうしたことがあったためか、パウロの名は島の長官の耳にも届くこととなりました。その名はプブリウスと言いますが、彼のもとで3日間のもてなしを受けます。
 さらにプブリウスの父親の病を癒したことで、パウロの名声はさらに多くの人たちに広がり、多くの人々が癒しを求めて病人をパウロのところへと連れてきます。

 パウロがこの島で福音を語ることができたかどうかは、何も報告が記されていませんが、おそらく言葉の通じない彼らに、通訳を介してまで直接福音を語ることはなかっただろうと思われます。しかし、圧倒的な影響を島民たちに与えたことは言うまでもありません。パウロたちが船出するころには、深い敬意を勝ち取るとともに、必要な物資までも提供をうけるようになりました。
 確かにキリスト教は、言葉によって福音を伝えることを第一としています。しかし、言葉があまり通じない相手にも、行いを通して神の愛を伝えることは大切です。パウロたちは、一時的に滞在しているにすぎないこの島でさえ、病に苦しむ人たちに対する神の愛を、自分たちを通して伝えようとしたのでした。

 さて、これらの話を使徒言行録の著者は、どんな意図で後世に書き残したのでしょうか。確かにローマに向かうパウロたちの足跡を、ただ航海日誌のように記録にとどめたということもあるでしょう。
 しかし、ここには神によって守られているパウロの姿が一貫して描かれているという側面も見逃すことはできません。使徒言行録は、エルサレムで逮捕されて以来、数々の困難を不思議にも克服してローマに向かうパウロの姿を描いてきました。どんな命の危険がパウロの前に立ちはだかろうとも、パウロを召した神が、いつもパウロと共にいてくださり、困難を乗り越えさせてくださっているのです。