2013年12月19日(木)ヨハネの証し(ヨハネ1:19-28)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 知らない土地の寂しい山道を車で走っているときに、対向車が来るとほっとすることがあります。確かにこの道の向こうに人里があることを証ししているように思えるからです。
 さて、きょうはメシアの到来を指し示す洗礼者ヨハネの証しを取り上げます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 1章19節〜28節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 きょう取り上げた個所は洗礼者ヨハネの証しの言葉が記された個所です。前にもお話ししましたが、このヨハネによる福音書では、「洗礼者ヨハネ」という言葉は一度も使われません。他の三つの福音書では、ヨルダン川の岸辺でメシアに先立って活動した人物を「洗礼者ヨハネ」と呼ぶのに対して、この福音書では「ヨハネ」とだけ紹介されます。もちろん、この福音書を書いた人物が、ヨハネの洗礼活動を知らないはずはありません。きょう読んだ最後の節にもある通り、福音書記者自身、ヨハネが洗礼を授けていたのは、ヨルダン川であったと記しているとおりです。
 しかし、それにもかかわらず、「洗礼者ヨハネ」という言い方を使わないで、ヨハネの証しのことばに読者の関心を導こうとしているようです。

 この「ヨハネ」という人物が初めてこの福音書の中に登場するのは、1章6節の中です。

 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」と記された後で、「彼は証しをするために来た」と紹介されます。

 きょうの個所は、その紹介を受けて、ヨハネがした証しの言葉が記されています。

 他の福音書を読むと、洗礼者ヨハネの影響は広く及んで、ユダヤの全地方とエルサレムの住民さえもヨルダン川のヨハネのもとに来たことが記されています(マルコ1:5)。ルカによる福音書には、ヨハネのことをこのひとこそメシアだと思う人さえ現れ始めたことが記されています(ルカ3:15)

 きょう取り上げた個所で、エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人を遣わして、ヨハネに質問させているのは、こうしたヨハネの人気がその背景にあります。ルカによる福音書が記しているとおり、人々の間ではメシアを期待するあまり、ヨハネをメシアだと思う人が出て来るくらいですから、エルサレムの指導者たちがそれを放置しておくはずはありません。

 さっそくヨハネに「あなたはメシアなのか」と単刀直入に問いただします。
 彼らがこうした質問をヨハネにぶつけたのは、本当のことを知りたいという求道心からではありません。そうではなく、噂が広まってローマ人たちの耳に入れば、どんな災難が自分たちに降りかかってくるか分からないからです(ヨハネ11:47-50参照)。厄介な火種は早く消しておく方が良いと、エルサレムの指導者たちは考えたのでしょう。

 彼らにとって、ヨハネの答えは意外なものでした。ヨハネははっきりと自分がメシアではないことを公言します。
 「ではエリヤなのか」という質問にも、「あの預言者なのか」という質問にもすべて否定の答えで応じています。

 これらの問いは、ヨハネがメシアそのものではないにしても、答えによってはメシアの近い到来を期待させる人物であることをほのめかすものです。なぜなら、エリヤは旧約聖書最後の書物の中で、メシアに先立って遣わされる人物として紹介されているからです(マラキ3:23)。また「あの預言者なのか」という謎めいた問いも、おそらくは申命記18章15節以下に記されたモーセのような預言者の到来の予告がその背景にあるのでしょう。
 そのいずれに対しても、ヨハネは否定の答えで応じています。

 では、ヨハネはいったい誰なのでしょう。エルサレムから遣わされてきた人々でなくとも、答えを知りたいと思うのは当然でしょう。

 ヨハネは、預言者イザヤの預言に出てくる「荒れ野で叫ぶ声」であると自分を紹介します。自分を「声」であると語ったヨハネは、自分を決して何者かであるようには表現しません。声というのは用件を伝えれば、消えてしまうものです。自分は主体ではなく、消えゆくものという理解です。もちろん、声には伝えるメッセージがあります。そのメッセージは、自分のあとからおいでになるメシアの道を備えよ、という内容です。

 では、メシアでもなくエリアでもなく、あの預言者でもないヨハネが、なぜ洗礼を授けていたのでしょう。この疑問は、エルサレムからやって来たファリサイ派の人たちによって問われます。
 実はその答えは、既にイザヤの預言の言葉の中に語られています。荒れ野で叫ぶ声が伝える内容は、「主の道をまっすぐにせよ」と言うものでした。ヨハネが洗礼を授けたのは、まさにこのために他なりません。

 しかし、ヨハネはファリサイ派の人たちの「なぜ」という問いには、直接の答えを与えません。ただ、自分よりも優れた方がおいでになること、自分がその方の履物のひもを解く資格もないほど、その方が貴い偉大なお方であることを指摘します。

 こうして洗礼者ヨハネは、あとからおいでになるメシアをしっかりと指し示したのでした。エルサレムの指導者たちから遣わされてきた人々も、またヨハネの周りに集まる人々も、そして、この福音書を読む現代のわたしたちも、ヨハネが指し示すそのお方こそ、心を向けるべき救い主なのです。