2013年12月26日(木)世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29-34)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 グレゴリオ聖歌をご存じの方は、「アニュス・デイ」というタイトルの歌をお聴きになったことがあると思います。ミサ曲と呼ばれる曲の中にも必ず「アニュス・デイ」というタイトルの曲が入っています。その意味は、ラテン語で「神の小羊」という意味です。
 きょう取り上げようとしている聖書の個所には、この歌の歌詞にもなっている「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉が出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 1章29節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 先週に引き続き、洗礼者ヨハネの証しを取り上げています。前回の学びでは、ヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネがいったい何者なのか、というヨハネ自身の自己証言に耳を傾けました。この福音書が冒頭で述べているとおり、ヨハネ自身は光について証しをするために来た人物でした(ヨハネ1:7)。ですから、自分について多く語るよりも、ヨハネが証しすべきお方についてこそ、多くを語るのは当然です。
 きょう取り上げる個所には、このヨハネが行ったイエスに対する証言が記されています。

 先週学んだように、エルサレムから遣わされてきた人々は、ヨルダン川で活動するヨハネにもっぱら関心がありました。ヨハネが証言する「わたしの後から来られる方」には、ほとんど関心がないようです。というよりは、ナザレのイエスについては、そのときほとんど知られていなかったようです。

 ヨハネがいう「わたしの後から来られる方」(1:15,27)というのは、このヨハネによる福音書の冒頭で記されているように、世の造られる前から神と共にあり、神そのもののお方でした。しかも、今や肉体をまとって人としてお生まれになり、この世に現れたお方です。
 ルカによる福音書の記事によれば、洗礼者ヨハネとヨハネの後からおいでになるイエスとの、人間としての年齢差は僅かに6ヶ月です(ルカ1:36)。ということは、ヨハネがエルサレムから遣わされてきた人々を前に「わたしのあとから来られるお方」と証言したときには、すでにこの世に誕生していました。
 しかし、洗礼者ヨハネ自身、最初からそのお方が誰であるのかを知っていたわけではありません。そのことはきょう取り上げた個所に二度にわたって繰り返されています。

 「わたしはこの方を知らなかった」(1:31,33)

 では、いつどのようにしてヨハネはナザレのイエスこそ、自分のあとからおいでになるお方であると知ったのでしょう。ヨハネの証言によれば、聖霊が鳩のように降ってその人の上に留まるのを見たとき、この人こそ、聖霊によって洗礼を授けるお方であると確信しました。というのも、ヨハネは前もってそのことを神から聞いていたからです。

 さて、洗礼者ヨハネが、自分のあとからおいでになるお方を、世の人々に紹介して証言する言葉が記されています。

 ヨハネはまずこのお方を世の人々に紹介するときに、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と述べています。

 「あれがわたしが言っていた人だ」という紹介の仕方ではなく、「世の罪を取り除く神の小羊」として、イエスを紹介します。罪の贖いのために献げられる犠牲の小羊というイメージは、神殿で献げられていた犠牲に馴染みのあるユダヤ人にとって、これほど救い主に対するイメージを明確に示すものはありません。

 しかし、ここでもっと注目すべき点は、遣わされてくる救い主が、ただ罪を贖う犠牲の小羊というのではなく、また、イスラエルの罪を贖う小羊というのでもなく、「世の罪」を取り除く小羊として紹介されている点です。
 罪の贖いのために献げられる小羊の犠牲には慣れ親しんできたユダヤ人にとってさえ、「世の罪」を取り除く神の小羊という表現は新鮮だったに違いありません。
 実際、「世の罪」という表現は新約聖書の中で、ここ以外では使われない表現です(1ヨハネ2:2参照)。

 そもそも、この福音書の中で「世」という言葉は、神と対立する勢力として登場する単語です(1:10,7:7,8:23など)。しかし、同時にこの世は神が御子を賜るほどに神の愛の対象であり(ヨハネ3:16)、イエス・キリストは単にイスラエル民族の救い主なのではなく「世の救い主」、あるいは「世界の救い主」として紹介されています(ヨハネ4:42)。その点を考慮すると、洗礼者ヨハネが、イエス・キリストを指して、世の罪を取り除く神の小羊と語ったことは注目すべき点です。

 さらに、洗礼者ヨハネは、このお方を、神の霊がその上にとどまっているお方、聖霊によって洗礼を授けるお方として証言しています。
 ヨハネの活動は水で洗礼を授けることでした。そして、それはやがて来ることになっているメシアに対して人々の心を整えるための洗礼でした。
 しかし、ヨハネが証言するメシアは、聖霊によって洗礼を授けるお方です。もちろん、そのときヨハネの言葉を聞いた民衆には、それが何を意味するのかは分からなかったことでしょう。しかし、洗礼者ヨハネは自分と後から来るメシアの決定的な違いの一つに、この聖霊による洗礼を特徴としてあげていることは、後からおいでになるメシアを理解する上で大切な点です。

 最後に、洗礼者ヨハネは、このお方を神の子として紹介しています。ヨハネ自身の言葉によれば、聖霊が降って、ある人にとどまるのを見たので、この方こそ神の子であると証しした、ということでした。おそらくこの言葉の背景には、他の福音書で記されているような出来事が想定されています。洗礼者ヨハネは、イエスの上に聖霊が鳩のように降ったときに、天からの声が「これは私の愛する子である」と語るのを聞いたのでしょう。

 ヨハネが証言する、後からおいでになるお方とは、他ならないイエス・キリストご自身ですが、そのお方は世の罪を取り除く神の小羊、また、神の御子その人なのです。