2014年1月2日(木)アンデレとペトロ(ヨハネ1:35-42)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 神学校を出たてのころ、ある先輩牧師からこんなことを言われたのを覚えています。「教会員で一番よく伝道をするのは、洗礼を受けて間もない人だ」と。
 なるほど思い当たることがあります。キリスト教と出会って洗礼を受けたばかりの人にとっては、自分の人生に起こった大きな変化を話さずにはいられない、というのは当然です。
 きょう取り上げる個所には、イエスと出会った人たちが、それを誰かに伝えたくて仕方ないような思いが伝わってきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 1章35節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ…『先生』という意味…どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後4時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア…『油を注がれた者』という意味…に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ…『岩』という意味…と呼ぶことにする」と言われた。

 前回はイエスについて証しをする洗礼者ヨハネの証言から学びました。ヨハネはイエスを指して「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言しました。きょうはその証言を聞いたヨハネの弟子たちの話です。

 最初の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカによる福音書を既に読んだことのある人にとって、ヨハネ福音書が描く弟子たちとイエス・キリストとの出会いの記事は、少し違和感を覚えるかもしれません。というのは、少なくともマタイとマルコの福音書では、弟子たちがイエスと出会うのは、洗礼者ヨハネが投獄された後の出来事です。そして、弟子たちが召し出されるのも、洗礼者ヨハネの紹介によってではなく、イエス・キリストご自身の側から彼らに直接近づいて行ったからです。

 それに対して、ヨハネによる福音書では、弟子たちがイエス・キリストに出会うのは、洗礼者ヨハネ自身の証言が大きな役割を果たしています。

 しかも、ヨハネによる福音書によれば、最初にイエスと出会った弟子たちは、洗礼者ヨハネの弟子でした。

 こうしたヨハネ福音書の記事は、他の福音書の記事と簡単には調和することはできません。また敢えてその違いを調和する必要もないでしょう。むしろ、ヨハネ福音書の記事そのものから、学びとっていくことが大切です。というのも、この福音書の著者は、自分の書いた福音書が他の福音書と調和されることを期待しているとは思えないからです。もしそうであれば、最初から他の福音書に似せて自分の福音書を書き著したことでしょう。

 さて、既に学んだ通り、洗礼者ヨハネは「証しをするため」に遣わされた人物でした(ヨハネ1:6)。それは人々の心を自分に結びつけるためではなく、後からおいでになるお方、そのお方に人々の心を向けさせるためです。ですから、きょう取り上げたこの記事は、洗礼者ヨハネの働きの重要な成果を記していると言ってもよい個所です。

 洗礼者ヨハネは、歩いておられるイエスを見つめて、自分の弟子たちの前で、「見よ、神の小羊だ」と証言します。そして、その証言を聞いた自分の弟子たちが、イエスに従っていくのを黙って受け入れます。
 このあと洗礼者ヨハネのことが出てくるのは3章22節以下の記事ですが、それまで、洗礼者ヨハネは舞台の表から姿を消してしまいます。この福音書は証しに徹するヨハネの姿を描き、その働きによってイエス・キリストへ導かれる弟子たちの様子を徹底して描いているのです。自分の証言によって、人々がキリストのもとへと導かれるならば、それで、自分の働きは十分であるといわんばかりです。ヨハネ福音書が描く洗礼者ヨハネの姿は、こうしてメシアへと人々を導く姿です。

 さて、このとき洗礼者ヨハネの証言を聞いて、イエスに従って行ったのは、二人の弟子であったと記されます。一人はペトロの兄弟アンデレで、もう一人の名前は具体的には記されていません。この福音書の中では、ヤコブの兄弟ヨハネのことは、いつも曖昧な呼び方でしか表現されませんから、このもう一人の弟子というのは、ヨハネのことかもしれません。

 さて、イエスに従っていった二人の弟子たちと、イエスとの会話が記されます。翻訳聖書で読む限り、「何を求めているのか」というイエス・キリストの問いに対して、弟子たちはイエスが宿泊している場所がどこなのか、その答えを求めます。そうして、イエスの泊っている場所に一緒に行って、その日は一緒にそこに泊った、という話の流れになります。

 ここで、「泊る」と訳されている言葉は、この福音書の中では、後に、キリストの愛のうちに「とどまる」という、この福音書にとって重要な用語として登場します。もちろん、ここでの意味は、「宿泊する」「滞在する」という意味なのでしょう。しかし、このヨハネ福音書は、普通の用語に神学的な重みをかぶせて、どちらにも取れるような言葉の使い方をしばしばしています。
 そう言う意味で、ここでも単に宿泊の話ではなく、実は、イエスの内に信仰的に留まるというまことの弟子の姿を、最初の弟子たちの姿に重ねて表現しているのかも知れません。

 さて、洗礼者ヨハネの証しは、自分の弟子たちの中から二人をキリストへと結びつけました。しかし、話はこれで終わるのではありません。そのヨハネの証言を聞いてキリストに従い、キリストのもとに留まった弟子のひとりであるアンデレが、今度は、自分の兄弟にキリストを証しします。

 この福音書には、ヨハネの証言を聞いた者がキリストと出会い、そのようにしてキリストに出会った者がさらに他の人をキリストのもとへと導く様子が活き活きと描かれています。

 アンデレはさっそく自分の兄弟シモンをキリストのもとへと連れて行きます。

 これはアンデレの自発的な伝道、自発的な証しとして描かれています。伝道というのは、ほかでもなく、キリストと出会った感動や喜びを伝えたいというその思いからだけ出るものだからです。