2014年1月16日(木)最初のしるし(ヨハネ2:1-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「奇跡」や「しるし」という言葉は、それだけで胡散臭いと思われがちです。特にあらゆる現象が科学的に解明される現代にあっては、科学的に説明のつかないことは起こらないことだと思われています。
 きょうこれから取り上げようとしている個所には、イエス・キリストがおこなった最初のしるしが記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 2章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 3日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも2ないし3メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

 ヨハネによる福音書は、きょうの個所からイエスが行った具体的な御業が記されています。その最初の御業は、ガリラヤのカナで行われた奇跡の御業です。

 カナは先週登場したナタナエルの出身地です(ヨハネ21:2)。カナに該当する場所については、現在の地名で二つの候補が挙がっていますが、それを特定することはきょうの話を理解する上で、それほど重要なこととは思われませんので、割愛いたします。

 さて、ことの発端はこのガリラヤのカナで行われた婚礼の宴でのことでした。婚礼の宴に、イエスも弟子たちも招かれていました。
 ユダヤの婚礼の宴は盛大なもので、今日のように一晩限りのものではありませんでした。披露宴は1週間にも及ぶことがありました(創世記29:27、士師14:17)。友人や親せきが招かれて、盛大に食事が振舞われます。
 今日取り上げた個所のように、途中で葡萄酒が足りなくなってしまう、ということは、1週間も続く宴会ではあり得ないことではなかったでしょう。

 ぶどう酒が足りなくなったことに気が付いた母マリアは、イエスにそのことを告げます。もちろん、母マリアが奇跡を期待して、そのことを告げたのではないでしょう。むしろ、どこかでぶどう酒を調達してくることを期待して、ぶどう酒がなくなったことを告げたのでしょう。

 「ぶどう酒がなくなりました」と告げるマリアに対して、イエスのお答えはそっけないように感じられます。

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

 自分の母親に対して「婦人よ」という呼びかけは、まるで赤の他人のような印象を与えます。もっとも、この呼びかけ自体は、男性が婦人に対して呼びかけるには、決して失礼な呼びかけではなかったようです。

 続いて「わたしとどんなかかわりがあるのです」と述べるこの言葉にも違和感を覚えるかもしれません。自分には関係ないことだ、と無情にも突っぱねているようにも聞こえます。ただし、この表現は聖書にしばしば出てくる表現で、必ずしも日本語で言う「そんなこと知ったことか」というニュアンスではありません。
 ここでの意味は「わたしの時はまだ来ていません」という言葉が示しているとおり、自分が相手の願いや要求に対して、ふさわしくない、という意味で、関ることができない事情を言い表しているのです。かならずしもつっけんどんな断り方をしているわけではありません。

 イエス・キリストにとって「わたしの時」と呼ばれるその時は、この福音書の中では十字架と復活を通して示される栄光の時と深く結び付いています。この福音書の中には、イエスの時がまだ来ていないという表現と同時に(7:30, 8:20)、ある時期からは、イエスの時が到来したことが告げられています(12:23,13:1,17:1)。いずれにしても、イエス・キリストはご自分の時がまだ到来していないことを理由に、母マリアの願おうとしてることに自分がふさわしくないことを告げます。

 もっとも母マリアには最初から自分の息子が奇跡をおこなうことを期待していたとは思われません。イエス・キリストの言葉をまるで聞いていなかったかのように、召し使いたちに、どうすべきかを指示します。それはイエスが何かを言いつけたら、その通りにするようにというものでした。新しいぶどう酒を買いに行くように命じれば、そのようにしなさい、という意味だったでしょう。

 しかし、イエス・キリストはそこに集う誰もが予想しなかった奇跡をおこなわれます。ユダヤ人たちが身を清めるために置いてある水がめに水を満たして、それをぶどう酒に変えるという奇跡です。しかも、今まで振舞ったぶどう酒よりもはるかに上等なぶどう酒です。

 ヨハネによる福音書は、この奇跡を最初の「しるし」として記しています。
 この「しるし」という言葉は、この福音書の中に何度となく登場します。ただし、それも12章までのことで、最後の晩餐の記事からあとには、たった一度だけしかでてきません。

 イエス・キリストが行う「しるし」は、それによってあるものには信仰が芽生え、しかし、ある者にとっては心を閉ざすものなのです。このカナの婚礼で行われたしるしによって、イエスは「その栄光を現され」、「それで、弟子たちはイエスを信じた」とヨハネ福音書は報告します。

 この福音書の20章30節以下にはこう記されています。

 「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 イエスのなさったしるしは、それによってイエスこそ神の子メシアであることをわたしたちが信じるために行われたものです。カナで行われた最初のしるしを通して、イエスの栄光を見る者は幸いです。